意地悪上司に求愛されています。(原題 レア系女史の恋愛図鑑)
「木島さ……ん」
「言いたくない? こんなに震えて」
「……」
「今言いたくないのなら無理強いはしない」
 だから安心して、と木島は私の肩を抱き寄せた。その優しさに頷いてしまいたくなった。
 だけど、言わないわけにはいかないだろう。頭ではわかっている。だけど、心が追いつかないのだ。
 もし木島に「そんな面倒くさい父親がいるのなら遠慮したい」などと言われたら……今の私は心が持たないと思う。
 昔の私だったら「そんな男なんて願い下げだわ」と鼻息荒く叫んでいただろう。
 だけど、今はそれができない。
 木島を失いたくない。その気持ちが先行してしまうから。
 木島の腕の中に導かれ、ギュッと抱きしめられる。ゆっくりと伝わってくる木島のぬくもり。ずっとこの腕の中にいたい。そう願うが、今から父親とした約束のことを話せば……木島は一線を引こうと考えるんじゃないだろうか。
 言わなきゃ、でも言いたくない。その瀬戸際を行ったり来たりしている私に、木島は耳元で囁いた。
「沢コーポレーションを辞めることになったら、菊池家に戻り、父親が用意した男との結婚が待っている」
「え……?」
「違うか?」
 どうして、そう呟くだけで精一杯だった。
 腕の中から彼を見上げると、フッと優しげに笑う木島と目が合う。
 ゆっくりとその大きな手のひらで私の頬を撫でたあと、「全部知っているよ」と笑った。
「ぜ、全部って……」
「麻友が隠したいと思っていた菊池家のこととか、まぁ……色々?」
「色々って」
 あ然とする私に、木島は「少し待っていて」と言うと、カバンから何かを取り出した。
 1通の茶封筒。その中から婚姻届が出てきた。
「これって……」
「NYに麻友が持ってきてくれたものとは別のもの。また区役所に取りに行った」
 NYに行った時に「婚姻届、書いてもらうから」と言っていた木島だったが、結局NYにいる間には婚姻届が陽の目を見ることはなかった。あのときの婚姻届は私のカバンの中にある。
 木島が取り出した婚姻届を見て、目を見開いてしまった。
「ねぇ、木島さん。これってどういう意味? え、どうして……!」
 慌てふためく私を見て、木島さんは楽しげにクスクスと笑っている。
「麻友がこんなにパニックになっている姿、見たことがないな。きっと営業事業部の奴らも見たことないんだろうな」
 役得、役得、と嬉しそうに笑っている木島を見て、思わずネクタイを掴んで叫んでしまった。
 ネクタイを引き寄せ、木島に詰め寄る。
「一体これはどういうことなの?」
「どういうことって? それがすべてだ」
「すべてって……」
 私は改めて木島に手渡された婚姻届を見つめる。
 記入しなくてはならない箇所は、キチンと埋められている。
 残り少ない空欄は、私の署名と印鑑ぐらいだ。
 私が記入して印鑑を押せば、このまま区役所に提出することは可能である。
 そう、全部書いてあるのだ。
 証人の欄に、私の父親の名前が書いてある。実印も押されている。
 この筆跡は間違いなく父親のもので間違いない。
「木島さん、これって……どういうことなの?」
 訳がさっぱりわからない。縋るように木島を見つめると、彼の頬が緩んだ。
「NYで書かせるって言ったこと、覚えている?」
 覚えている。覚えているわよ。
 だって……木島があまりに真剣に言うから、絶対に書くことになるのかなぁと思ったのだもの。
 だけど、結局NYの地にいる間、婚姻届を手にする機会はなかった。
 だからこそ、日本に戻ってきたこの一週間。どうして木島は私に婚姻届を書かせようとしなかったのかとモヤモヤした気持ちを抱いていたのだ。
 コクコクと何度も頷くと、木島は困ったように眉を下げた。
「麻友にNYにいるうちに書いてもらおうかと思っていたんだけど……よくよく考えたら麻友の家族に挨拶もせず、いきなり婚姻届を出してしまうというのはどうかと思ったんだ」
「木島さん……」
「だから麻友に内緒で行ってきた」
「どこに……?」
 木島の話を聞いていれば、彼がどこに行ったかなんてわかる。
 だけど聞かずにはいられなかった。だって、あの菊池家に単身乗り込んで行ったというのか、この男は。
 呆然としていると、木島はゆっくりと頭を撫でてきた。
「婚姻届の証人の欄に麻友のお父さんの署名と実印があるだろう? それが答えだ」
「答えって……どうして? どうして、お父さんが!?」
 絶対にあり得ない。あれだけ私を目の敵にしていた父が、菊池家の利益にならない男との結婚を許すだなんて考えられない。
 首を何度も横に振っていると、木島は私のカバンを差し出してきた。
「電話してごらん、麻友」
「でもっ! お父さんなんて私の話を聞くはずない。いつも菊池の家と姉さんのことしか考えていないのに」
 怒りをぶちまける私に、木島は冷静な瞳で私を射貫いた。
「いいから、連絡してごらん。すべてはそれからだ」
「木島さん」
 困って目を泳がせる私に、木島は深く頷いた。
< 122 / 131 >

この作品をシェア

pagetop