お口を開けて
「左の奥歯、ここですね。歯ブラシが届きにくい箇所に、虫歯が出来ています。すぐに削って処置をした方がいいです」
「すぐって、いつ頃までに……」
「すぐはすぐですよ。今日は削って、仮詰めをします」
「えっ……」
「はい、イス倒しますよ」
「いや、ちょっと、待って」
返事をする間もなく診察台が動き出す音がする。私は思わず足をばたつかせた。
「あの、私まだ治療しますとも何とも言ってないです」
天井を見上げながら最後の抵抗を試みる。言い終えた後は固く口をつぐんだ。口だけは絶対に開けない。患者に治療の意思がなければ勝手に処置などできないはずだ。
「美しい歯はご両親からいただいた最高のプレゼントだと、私は思っています」
すると、固く唇を結んだ私をのぞき込み、彼は急に神妙な面持ちで語り始めた。
「健康な歯を保ち続けられるかどうかは、本人の努力だけでなく、遺伝的要因も大きく関係しています。免疫機能には個人差がありますし、歯並びや噛み合わせが元々良い人は、そうでない人に比べて生涯健康な噛み合わせを保つことが出来る確率が高いと言われています」
なるほど、私は生まれながらにして恵まれていたということらしい。今までは知らなかった事実なのに、そう言われると急にありがたみが出てくるというものだ。
「美しく並んで輝く歯は、どんなに大きく輝く瞳より、高く通った鼻筋よりも素敵な贈り物です。なぜなら、人間は食べることで生きながらえる生き物です。健康な食生活を支えるのは健康な歯に他なりません。どんなに形のよい目や鼻を持っていても、人は目や鼻ではお腹を満たす事は出来ませんから」
私はふむふむと思わず首を縦に振る。私は人から羨まれるような美人じゃない。目は奥二重だし、鼻はごく普通の形だ。しかし、どんな形であっても、目や鼻は正常に機能している。妙に納得してしまった私の顔を、先生が正面から覗き込む。
「君はそんな大切なプレゼントに穴が開いたままで、平気なの?」
殺し文句とはこういうことを言うのだろう。初対面の眼光の鋭さはどこへやら、小首を傾げながら、甘さたっぷりに囁いた彼は、完全に私を殺しに掛かっている。
それだけでも、十分落とされてしまいそうなところを、もう一度首を横に振り、必死に踏みとどまる。
しかし、すぐに実家を出て以来たまにしか会わない両親の顔が脳裏に浮かんで、私はあえなく陥落した。
確かにふたりとも歯並びはいい方だった。裕福でも貧乏でもなく、ごく普通の家庭に育った私が、まさか知らず知らずのうちに、両親から貴重なものを受け継いでいたとは。食べることが好きな私にとって、確かに何物にも代えがたい最高のプレゼントだ。それに穴を開けてしまうなんて、自分がとんでもない親不孝者のような気がしてくる。
そして、ついには思わずほろりとこぼれそうになる涙をぐっと押し込めて「先生、お願いします」と口走っていた。