お口を開けて
「はい、じゃあ大きくお口を開けて……」
改心した私を前に、先生はそう言って私の治療に取りかかった。
「少しチクッとするけど、我慢して」
「……へっ、はんでふか(何ですか)」
「麻酔。結構深く削るから、麻酔しないと我慢できないよ」
「ひょ、ひょっほはっへ(ちょっとまって)」
「じっとして。亀芳さん、手しっかり押さえて」
さっきまでの柔らかな口調と真摯な眼差しはどこへやら、途端に治療モードになったらしい先生は、また鋭い目つきへと戻っていく。騙された!と気付いた瞬間、歯茎にチクリと痛みを感じる。
「ひっ、ひはひ~(痛い~)」
抵抗する私を押さえるように指示を出された歯科衛生士さん(名前はかめよしさんと言うらしい)は苦笑いを浮かべながら、私の手を握っていた。思わず、その手をぎゅっと握りしめてしまった。
(こんなの、詐欺だー!!)
心の中で叫んでみたものの、声にはならない。やがて、人生初の自分の歯が削られていく音が聞こえてきた。
こうして、10分後。
どうやら、私の人生初の虫歯を無事に削り取られたらしい。
あのキーンという不快な金属音によって、すっかりと戦意を消失した私は、ぐったりと診察台に体を預けて、されるがまま大人しく口を開けていた。
歯型を取り、削った穴を仮詰めする。
丁寧に説明されたが、全然頭に入ってこない。全ての処置を終えて、電動で強制的に起き上がらされた後も、私は放心したままだった。麻酔がまだ切れていないからか、左頬もぼーっと痺れている。
「……終わったけど?」
呆れたような顔で覗き込まれて、ハッとする。
「帰らないの?」
いつの間にか、先生の口調はタメ口になっていて、やたら馴れ馴れしい印象を受けるが、この際そんなことはどうでもいい。
「か、帰ります……って、うわぁっ」
慌てて診察台から降りようとして、地面にへたり込む。緊張で思い切り足に力を入れていたせいか、上手く地面に着地出来なかったようだ。壁に手をついて立ちあがる私に、先生は呆れたような視線を向けた。
「普通、そこまで緊張する?」
「……します。先生、バンジージャンプはしたことありますか?」
「……ないけど?」
「してみてください。きっと、私の気持ちが分かります」
未知なる恐怖と対峙する。その恐怖は時として計り知れない。