お口を開けて
向かいのビルへ、裏口らしきドアから足を踏みいれる。
うちのボロいビル(オーナーには失礼だけど)とは違って、大通りに面しているこのビルは最近建て替えをしたばかりだ。
やはりエレベーターも最新機種だと早いのか、ボタンを押せばすぐに一階へと降りて来た。
ゆかりさんのあの形相から、すでに逃げるという選択肢は私の頭の中から消えている。それでも、何とかあのキーンという音を聞かずして、帰れないだろうかと考える。
とりあえず痛み止めを飲んで様子を見ましょうとか、その程度だといいなとエレベーターの天井に向けて祈りを捧げた。
祈りの最中だというのに、無情にもエレベーターがポーンと音を立てて到着を知らせる。
扉が開けば、正面にあのニッと歯を見せて笑うマスコットキャラクターのウサギのぬいぐるみが置かれている。そんな、可愛い顔で出迎えられたところで、私の恐怖心は薄れるはずもなく。私は、引きつった顔で、受付へと歩み寄った。
「あっ、先ほどお電話いただいた方ですね~」
何も言ってないのに、受付のお姉さんは全てを察してくれたらしい。柔らかく微笑む彼女に保険証を渡して、代わりに問診票を受け取った。
クリニック内はとても高級感がある作りで、清潔感に溢れていた。土足で足を踏みいれるのを戸惑うくらい床もピカピカだ。
待合室の革張りのソファもフカフカだった。雑誌も豊富だし、ミネラルウォーターのサーバーもある。私はしばし歯の痛みを忘れ、優雅な気分に浸った。
オフィス街に近く、患者もビジネスマンが多いのだろう。そのため、午前中の診療はなく、診察時間は昼の一時~夜十時まで。
昼の早い時間は空いているのか、待合室には私の他にもう一人、営業マン風の男の人が座っているだけだった。
「三井喜羅様、二番診察室までどうぞ」
名前を呼ばれ、立ちあがり診察室の扉を開いて中へと入る。
どうやら、プライバシーに配慮してか、診察室は半個室になっているらしい。
カーテンを開いて笑顔で立っている可愛いお姉さん(噂に聞く歯科衛生士さんなのだろうか)に招き入れられ、恐る恐る診察台へと座った。
人生、二回目の経験である。
緊張した面持ちのまま座っていると「失礼しますね」と紙でできた赤ちゃんのよだれかけのようなもの(大人サイズ)を首に掛けられ、少し待つように言われた。