ドルチェ~悪戯な音色に魅せられて~
翌朝、アパートの外で隼人さんに小さく手を振る。

「じゃ、仕事頑張ってください」
「お前もしっかり働けよ~」

……実はこういうの憧れてた。
頬を染めながら、いきなりこんな幸せな生活をしている自分に心が踊る。
仕事に向かおうと踏み出すと、隼人さんが思い出したように声を上げた。

「あぁ俺、五時上がりだから」
「?」
「今晩は焼き魚にしてね」
「……はい」


ん?

んん?

ヒラヒラと手を振りながら、遠くなる背中を呆然と見つめる。
焼き魚……、白身が好き?それとも赤身ですか?

もしかして、今日も来てくれるってことですか?



「花音おはよーっ、月曜ってダルイわぁ」
「……恵理、おはよ」
「何ボーッとしてるの?」
「白身か赤身か……」
「は?」
「隼人さんが……」

会社に着いた私は今朝の出来事を恵理に話す。
始業の時間になっても私達は、広瀬兄弟の話題に花を咲かせた。

「えぇぇっ!いーなー、ラブラブじゃないの!」
「……大丈夫かな?」
「あんた、不幸続きだったから幸せに怖じ気づいてるわね」
「だって」
「あー、私も愛されたい!」

恵理は書類をバンッとデスクに叩きつけ、化粧をし始める。
いつも二時間おきに塗り直すリップグロスは今日も輝いていて、狭い事務室に甘い香りが漂った。

「そういえばっ!バーに例の父親が来たの」
「あ、私も廊下で会った」
「ほんと?なんか頭ごなしに説教始まったから、私イラッとして……」
「同じく。言い返そうとしたら隼人さんに取り抑えられたけど」
「私なんて、人のこと言えるんですかぁ?って言ってやったわ」
「さすが恵理」
「でも昂くんかなり驚いてたから、まずかったかもしれない……」
「うーん。きっと色んなしがらみがあるんだろうね」
「次期社長かぁ……、なんか遠い存在」
「確かに……」

恵理も私もお互いに抱いている気持ちは似ている。
私なんて恋愛休止宣言したばかりなのに。
普通じゃ届かないような人に恋している私達は、揃って溜め息を吐いた。





夕飯はリクエスト通り焼き魚。
とりあえず白身にしてみて付け合わせも作ってみたけれど、彼の口に合うのだろうか。
そわそわして時計を見るともうすぐ十九時。

「……遅いな」

三十分あれば着く距離なのに、だんだん不安になっていく。
連絡したら迷惑かな?
いや、そもそも私そんなキャラじゃないし、ドタキャン慣れしてるし、平気だもん!

「……だから振られるのよ私は」

盛大な溜め息を溢した時、インターフォンが鳴り響く。
慌ててバタバタと玄関を開けると、少し驚いた顔をした隼人さんが立っていた。

「お前、誰か確認してから開けろよ」
「えっ、あ!」
「そんなに待ち通しかったんだ?」
「……全然っ、待ってないです!」
「ふーん」

ニヤリとした隼人さんに頬をつねられる。

「なにふるんでふか……」
「ニヤケテル」

ヤバイ、この顔!
彼の口角と眉が上がれば意地悪が始まるサイン。
身構えていると、意外にも隼人さんは私の頭を撫でただけだった。

あれ、元気ない……?

「飯はー?」
「あっ、はい!」

気のせいかな?
一見いつも通りの隼人さんと、他愛ない会話は弾み夜が更けていった。
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