ただ好きと言われただけで
何も知らない事を、知らない
結婚してから二年の月日が流れていた。私の主人の柊一は、私が結婚する前に勤めていた食品会社の広報担当者だった。

先輩から可愛がられ、重要なポストに着き様々な企画を任されていた主人とは違い、私はお世辞にも仕事がバリバリと出来ると言ったタイプではなかった。

それなのに主人は今ひとつ垢抜けない私を気に入ってくれた。夫は私とは正反対にテキパキとしてよく働き、雑多な情報を処理するのに長けて上司から厚い信頼を得ていた。今はもう私はお勤めを辞めて、家で専業主婦をしている身だから主人の仕事振りを目の当たりにする事はそれ程にはない。

「何故私を選んだの?」

私は何度その質問をしたのだろう。どちらかと言えばグズでのろまで、おっとりしてると言えば聞こえはいいか知らないがただ愚順で頭の鈍い女をどうして結婚相手に選んだのか。

「るいは俺に付いてきてくれるだろう。黙って、付いてきてくれる子がいいんだ」

その度に決まって柊一は私にそうもっともらしく言って、納得させるように肩を叩くのだ。私は初め、本当に無知極まりないのだがその言葉を額面通り良い意味で受け取っていた。

調理専門学校を卒業した後に食品会社に入社したのが二十歳、結婚をしたのは二十二の時だった。その歳にしては頭が悪かったんだろう。主人の言葉から推測される本当の意味に気付いていなかった。

結婚をしてから主人は時折癇癪を起こすようになった。私の口癖や食べ方、喋り方細かい事が時々気になるらしく不手際があるとよく怒られていた。一緒に出掛けていて車酔いした時も、何でいきなり気分が悪くなるんだと怒った。柊一は物事が計画通りに進まないのが嫌いなのだ。ドライブの最中に目的地に着くまでに私の為に一度車を停めなければならないのが我慢ならなかったのだろう。私はと言えば、ひたすらに謝ってからトイレに駆け込み、その後も罵声を浴びながら再三に謝っていた。

柊一は今迄仕事でも常に自分の意見を通してやってきて、それで営業成績を上げて周りからも高い評価を得ていた。故に、結婚した相手に何か小煩い事を言われたりするのは元来彼の持つ頑固で我の強い気質が堪え兼ねさせるのだろう。文句を言わなさそうな大人しく都合の良い女だから私を選んだのだとそう後で悟った。

結婚してから私は仕事を辞めて専業主婦として家の事は当たり前のようにこなしていた。それは少しは、夫の見えないところで手を抜いたりもしたけれども。夫の帰りが飲みで遅くなっても文句は言わなかった。帰ってきた後、キャバ嬢からのメッセージの着信があっても染み付いた香水の香りを漂わせていても何も言えずにいた。言えないのだ。柊一は社交的で明るく人当たりも良かったけれど、怒らせるととても怖い。

出掛けてる時も下調べが甘かったり準備が足りていないとよく怒鳴った。至らない部分があると頭ごなしに叱りつけられる。周りはそんな事夢にも思わない、奥さんに優しい旦那様だと思っているだろう。何度クズだと頭が悪いと底辺の女だと罵られたか分からない。それでも文句を言わない女だと分かっていたから結婚したのだろう。何故、その事に私は気付けなかったのか。それはやはり私が馬鹿だったから、としか残念ながら言いようがない。それに私みたいな何の取り柄もない女を他に誰が見初めてくれるのか、私は二十二の頃から全くと言っていい程自信がなかった。

そこまで悟ってもなお、私は夫の為に黙々と家事をこなし文句を言わずに慎ましく家計を管理して暮らす、それが当然のように思っていた。むしろ美徳ではないかとモラハラ気味の夫の暴言に耐え忍ぶ事に酔ってすらいた。

そんなある時だった。専門学校時代の友人から連絡が入った。フランスに留学していたけれど日本に帰って来たので一度ご飯にでも行かないかと誘ってくれたのだ。友達と出掛けるだなんて久しぶりだった。

ランチ代は千円前後が主婦のお決まりではあるけれど、最近出掛けていなかったからもう少し上乗せしたっていいかもしれない。お金の管理に関しては私が友好関係が少なく滅多に外に出掛けず、美容院にも三月に一度通うくらいで全く無駄遣いをしないからその点は煩くは言われていなかった。

近所の喫茶店は自営でやってるらしく白壁の可愛らしいこじんまりとした場所にあった。元々友人も地元が私が結婚して今住んでる場所に近いから実家に帰って来てるらしく、丁度いいからとその喫茶店でご飯にする事にした。ランチのセットが1080円、話し込むためにケーキセットを追加して1756円と言ったところだった。さっきも言った通り出掛ける事自体が滅多にないものだからそう痛い出費ではない。

一年間留学していたという沙織、ことさっちゃんは専門学校時代に見た時よりもとても垢抜けて見えた。

留学先のお勤め場で髪の色は自由だったらしく明るいハニーブラウンの綺麗な髪色に染まり、毛先はパーマがくるくると流れていて顔周りにもそのくるくるがかかってとてもチャーミングに見えた。

「もうね、大変だったの。一応フランス語勉強していったんだけど、いざ向こうに行ったら怒鳴られるは鍋は飛んでくるわセクハラされるはで」

ケラケラと楽しそうに笑いながら話す彼女は、顔立ちがそう際立って美形というわけではないのだけれど、とても美人に見えた。細長い瞳は三日月型に細められ、特徴的な笑いえくぼの隣にはほくろが浮かび少し厚みのある唇は楽しそうな笑みの為に弧を描いていた。全身で前向きで明るいオーラを放ってて私はさっちゃんといると自分まで明るくなれる気がしたから昔からさっちゃんが大好きだった。

「ねぇ、るい。るいは髪染めたり、ネイルしたりしないの?まだ子供いないなら、今のうちにそういうのやってみたらどうかな?るいは可愛いからきっと何しても似合うと思うのよ」

ひとしきり、留学先の話をし終えた後にさっちゃんは不意にそう言って私の顔を見つめた。可愛い…?さっちゃんは昔からそう言ってくれるけど、自分ではよく分からない。

「ネイルは…きっと夫が嫌がるから」

夫は女の爪がとんがってるのが嫌いなのだ。あんなので料理をして欲しくないとよくテレビに出てくる女優さんを見て言っている。

「ええ!旦那様それはまたどうして?ちょっと地味なのでもだめかな、爪を薄くピンク塗って貰うだけでも!」

「うん…それなら」

でももし、髪をカラーしてカットしてってなるとネットクーポンを使ったとしても最低でも6000円はかかるし、それにトリートメントも付けたらいくらになるだろう。今迄三月に一度カットに3240円、安いクーポンが入ってる時や誕生月なら2160円で済んでいたのにもっとお金がかかるようになる。カラーしたら染め直さなければならないしその度にトリートメントもやって貰わなければぱさぱさになる。

「お金が持つかなぁ。余裕がないわけじゃないけど、美容院結構かさまない?」

「それなら、るい働きに出たらいいんだよ!きっと気分転換になるし、家にずっと居るより楽しいんじゃない?」

さっちゃんはとてもいい事を思い付いたようにそう言った。外に出る。働きに。パートタイムになるだろうか。でも、言われてみるととても楽しい事のように思えた。さっちゃんが言うからだろうか。お小遣い稼ぎの為に外に出て少し働いて、美容院に行くお金も服を買うお金も自分で稼ぐ。細かく金銭をケチる必要もない。それはとても夢のように素敵な事に思えた。

「楽しそう、ねぇさっちゃん。私、やってみる」

肝心の垣根は夫が納得してくれるかどうかだが。上手いことパートタイムで働きに出る事を許して貰えるだろうか。それだけ、一抹の不安が残ったけれど怖い夫の収入に依存しっぱなしよりは幾らか自立した気分になれるのではないかと思った。
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