ただ好きと言われただけで
「俺の稼ぎに不満でもあるのか」
今にも罵声を浴びせるぞ、と言ったような重々しい空気の中で夫はネクタイを外しながらそう言った。私は床に座って夫の脱いだ服を集めながら、顔色を伺い出来るだけしおらしい言葉を探した。機嫌を損ねられると困る。
「そういう、訳じゃないわ。ただ、これから子供が生まれた時のために予めまとまった預金を用意しておきたくて…ほらあなた、子供には幼少期から習い事させてやりたいって話してたじゃない。ある程度貯めておいて、損はないと思うの」
我ながら中々上出来だ。お洒落や美容の為に、そして気分転換がしたくて働きたいなんて正直に言えっこない。嘘を付かない範囲で誤魔化す事だって時には必要だと、自分で自分に言い聞かせた。
「……出来るのか?お前なんかに」
馬鹿にしたような声とともに頭上からネクタイを投げつけられた。
「勝手にしろ。どうせ続かないだろうからな」
柊一はそう言うと、さっさと風呂場へと向かっていった。今、何て言っただろう。勝手にしろ?こんなに嬉しい事はない!頭ごなしに否定される想定ばかりしていたのに、勝手にしろだなんて!ああ、説得する手間が省けた。言葉通り勝手にさせて頂く。でも家事に支障が出るとまた煩く言うだろうから支障が出ない時間帯を希望する。
外に働きに出るのは二年振りだ。私はさっそく目星を付けておいた求人情報サイトに掲載されていた応募要項を送信し、面接の時間をメールでやり取りして次の日に確認の電話を入れた。履歴書はもう用意してある。あの息の詰まるような家から出て仕事が出来る!なんて幸せなのだろう。
私が応募したのは近所のスーパーのレジ・接客の要項だった。面接なんて久し振りで、いざ時間になりスーパーに入ってオーナーに声を掛けられると自然と背筋が伸びた。バックヤードへと案内されて、監視カメラのモニターとパソコンが置かれている部屋に案内される。オーナーの年齢は40前後といったところだろうか。髪は禿げてない、真ん中より少し右側寄りに前髪を分け、襟足は平均的な長さで切られていた。マスクをしていて、目元は優しそうな二重をしている。だけど特別ハンサムかと言われるとそういう雰囲気ではなく、中肉中背のどこにでもよくいそうなおじさん、という感じだった。履歴書にちらっと視線をやってから、椅子に座って私に初めましての挨拶をした。
「店長の弥生と言います。宜しくお願いしますね。…山科さんですね。こういったパートで働くの初めて?」
「初めてです」
「以前はお勤めされてましたね。どんなお仕事でしたか?」
「中小企業の食品会社でお仕事させて頂いて…主に広報関係の事務や印刷の管理、時々プレゼンの為に食品を調理加工する事もありました。製造した商品を取り扱ってるお店での研修が半月に一度ぐらいありました」
弥生さんは頷きながら丸い目で私の方を見返していた。少し緊張する。暫く専業主婦として引きこもっていたからか、元々持っていないコミュニケーション能力が今底辺レベルまで下がってきているような気がする。どのように見えているのだろう、私は。
「失礼ですが、ご結婚されてるようですがお子さん等は?」
「今はいません。これからすぐ出来るという感じもありません」
「……特に問題無さそうですね。レジも接客も慣れですし、こう言っちゃなんですが誰にでも出来ますから。宜しくお願いします」
差し出された骨ばった掌に少しぎょっとする。失礼かもしれないが一瞬何の儀式かと思ってしまったのだ。宜しくお願いしますの握手か、と理解するまで数秒の時間を要した。おかげで変な間が出来てしまった。
おずおずと手を差し伸べて顔を上げると優しく見守るような表情の弥生さんと目が合った。
「……緊張されてます?」
「あっ…は、はい」
「はは、そうですか。…まぁ初めはそんなもんです」
「す、すいません…」
握手していた手が離れて、思わず視線が泳いだ。夫以外の異性と二人で何か話をするのも、まして手を触れられるのもいつ振りか分からない。
「山科さんはーーーなんか、あの人に似てますね。言われませんか」
「は、はぁ?」
弥生さんは緊張を解そうとでもしてくれているのか、困ったような笑い方をして頭を掻いていた。
「ああ名前が出てこない。テレビで、映画のCMでセーラー服着て機関銃持ってた子です。ちょっと顔立ちが似てますよ」
「は、橋本環奈ちゃん…?」
「そんな名前でしたっけね」
「似てないですよ絶対。あんなに…まず若くないです」
あんな国民的に可愛いと称されるアイドルと一緒なわけがない。びっくりして否定していると笑う声が返ってきた。…私も真面目に否定しなくても、多分緊張してるからそれを解そうとお世辞を言ったのだろう。というか、それしか考えられない。
次の研修時のシフトを決めてから、お礼を言って部屋を後にした。優しそうな人だった。あんな感じの人が店長ならなんとか上手くやっていける気がする。
ふと、店の外で自分の掌を見つめた。一瞬重なった骨張った指の揃えられた掌の感触。…じわりと、胸の中で氷砂糖が溶けたかのような感覚がした。とにかく、明後日から研修だ。新しいことが始められる。前を向く事が出来る。これは今まで消極的に夫の鞘に収まってばかりいた私にとっては大きな第一歩だと思う。頑張らなければ。
今にも罵声を浴びせるぞ、と言ったような重々しい空気の中で夫はネクタイを外しながらそう言った。私は床に座って夫の脱いだ服を集めながら、顔色を伺い出来るだけしおらしい言葉を探した。機嫌を損ねられると困る。
「そういう、訳じゃないわ。ただ、これから子供が生まれた時のために予めまとまった預金を用意しておきたくて…ほらあなた、子供には幼少期から習い事させてやりたいって話してたじゃない。ある程度貯めておいて、損はないと思うの」
我ながら中々上出来だ。お洒落や美容の為に、そして気分転換がしたくて働きたいなんて正直に言えっこない。嘘を付かない範囲で誤魔化す事だって時には必要だと、自分で自分に言い聞かせた。
「……出来るのか?お前なんかに」
馬鹿にしたような声とともに頭上からネクタイを投げつけられた。
「勝手にしろ。どうせ続かないだろうからな」
柊一はそう言うと、さっさと風呂場へと向かっていった。今、何て言っただろう。勝手にしろ?こんなに嬉しい事はない!頭ごなしに否定される想定ばかりしていたのに、勝手にしろだなんて!ああ、説得する手間が省けた。言葉通り勝手にさせて頂く。でも家事に支障が出るとまた煩く言うだろうから支障が出ない時間帯を希望する。
外に働きに出るのは二年振りだ。私はさっそく目星を付けておいた求人情報サイトに掲載されていた応募要項を送信し、面接の時間をメールでやり取りして次の日に確認の電話を入れた。履歴書はもう用意してある。あの息の詰まるような家から出て仕事が出来る!なんて幸せなのだろう。
私が応募したのは近所のスーパーのレジ・接客の要項だった。面接なんて久し振りで、いざ時間になりスーパーに入ってオーナーに声を掛けられると自然と背筋が伸びた。バックヤードへと案内されて、監視カメラのモニターとパソコンが置かれている部屋に案内される。オーナーの年齢は40前後といったところだろうか。髪は禿げてない、真ん中より少し右側寄りに前髪を分け、襟足は平均的な長さで切られていた。マスクをしていて、目元は優しそうな二重をしている。だけど特別ハンサムかと言われるとそういう雰囲気ではなく、中肉中背のどこにでもよくいそうなおじさん、という感じだった。履歴書にちらっと視線をやってから、椅子に座って私に初めましての挨拶をした。
「店長の弥生と言います。宜しくお願いしますね。…山科さんですね。こういったパートで働くの初めて?」
「初めてです」
「以前はお勤めされてましたね。どんなお仕事でしたか?」
「中小企業の食品会社でお仕事させて頂いて…主に広報関係の事務や印刷の管理、時々プレゼンの為に食品を調理加工する事もありました。製造した商品を取り扱ってるお店での研修が半月に一度ぐらいありました」
弥生さんは頷きながら丸い目で私の方を見返していた。少し緊張する。暫く専業主婦として引きこもっていたからか、元々持っていないコミュニケーション能力が今底辺レベルまで下がってきているような気がする。どのように見えているのだろう、私は。
「失礼ですが、ご結婚されてるようですがお子さん等は?」
「今はいません。これからすぐ出来るという感じもありません」
「……特に問題無さそうですね。レジも接客も慣れですし、こう言っちゃなんですが誰にでも出来ますから。宜しくお願いします」
差し出された骨ばった掌に少しぎょっとする。失礼かもしれないが一瞬何の儀式かと思ってしまったのだ。宜しくお願いしますの握手か、と理解するまで数秒の時間を要した。おかげで変な間が出来てしまった。
おずおずと手を差し伸べて顔を上げると優しく見守るような表情の弥生さんと目が合った。
「……緊張されてます?」
「あっ…は、はい」
「はは、そうですか。…まぁ初めはそんなもんです」
「す、すいません…」
握手していた手が離れて、思わず視線が泳いだ。夫以外の異性と二人で何か話をするのも、まして手を触れられるのもいつ振りか分からない。
「山科さんはーーーなんか、あの人に似てますね。言われませんか」
「は、はぁ?」
弥生さんは緊張を解そうとでもしてくれているのか、困ったような笑い方をして頭を掻いていた。
「ああ名前が出てこない。テレビで、映画のCMでセーラー服着て機関銃持ってた子です。ちょっと顔立ちが似てますよ」
「は、橋本環奈ちゃん…?」
「そんな名前でしたっけね」
「似てないですよ絶対。あんなに…まず若くないです」
あんな国民的に可愛いと称されるアイドルと一緒なわけがない。びっくりして否定していると笑う声が返ってきた。…私も真面目に否定しなくても、多分緊張してるからそれを解そうとお世辞を言ったのだろう。というか、それしか考えられない。
次の研修時のシフトを決めてから、お礼を言って部屋を後にした。優しそうな人だった。あんな感じの人が店長ならなんとか上手くやっていける気がする。
ふと、店の外で自分の掌を見つめた。一瞬重なった骨張った指の揃えられた掌の感触。…じわりと、胸の中で氷砂糖が溶けたかのような感覚がした。とにかく、明後日から研修だ。新しいことが始められる。前を向く事が出来る。これは今まで消極的に夫の鞘に収まってばかりいた私にとっては大きな第一歩だと思う。頑張らなければ。