峭峻記
序章
それは、奏国で国を揺るがせる大戦争が起きるより前の事。
幼い少女は、侍女に抱かれ少ない手兵と共に追っ手から逃げていた。
少女の瞳には燃え盛る大屋敷が見えた。
その炎はまるで赤い海のようだった。
うねりを上げて立ち上がる火は荒れ狂う龍の如く映って見えた。
(笑っている。たくさんの人を焼いて)
(あの龍は笑っている)
なんとおぞましい火だろう。
(····さま。)
少女は泣き叫んでその名を呼んだ。
燃え盛る屋敷に向かって、小さな手を伸ばす。
ー峻麗、死んではならぬ!
生き延びよー
少女の耳にその声が木霊(こだま)した
(嫌だ。···さまぁ。)
少女は焼け崩れていく屋敷を見た。
少女の大切なものをその龍の炎は一瞬で奪っていった。
少女には自分の中の何かがひび割れていく音が聞こえた。
涙で視界が歪んでいた。
胸が潰れるくらい苦しかった。
ー少女は暗闇の中にいた。
何も見えなかった。
いや、違う。見ようとしなかった。
自分を庇い盾になった最後の一人が目の前で倒れた。
遅れて飛ばされた首が、少女の足元に転がった。
少女は頭からどろりとした生ぬるい液を浴びていた。
その液で濡れた髪がべっとりと体にへばりついている。
嫌な臭いがしていた。
体に浴びたその臭いが鼻に付いて堪らなかった。
真っ暗だった。
悲しいはずだった。
恐らくは、そうだった。
けれど、涙はもう流れなかった。
泣き叫ぶことも、哀しむことも
方法がわからなかった。
悲しいのかどうかさえもよくわからなくなっていた。
ただ、呆然とそこにいた。
気がつけば目の前に人影があった。
「まったく、つまらないね。もっと楽しませてくれるかと思ったけど呆気ない」
兇手の男は、少女に歩みより、少女の顔を掴み眺めた。
「綺麗だね。お姫様。血で染まった可憐な花を僕はどうやっていけたらいいかな」
品定めするように、その男は少女を見て、冷笑する。
少女は殺されるのだとわかっていた
けれど、恐れはなかった。
恐怖すら忘れてしまっていた。
「恐れも悲しみもない····か。いいね。」
その男は冷たく、どこか楽しそうに言った。
一拍置いて、男の眼が狂気を帯び赤く光った。男は少女を手に掛けようと剣の柄を強く握った。
「貴方は、·······のですね」
少女の言葉に男の動きが止まった。剣の切っ先が少女の喉元で止まる。
男は、不適な笑みを浮かべ剣を下ろす。
「ふふっ。君、面白いね。だったら」
ー君は、どうやって僕を楽しませてくれるのかな?