峭峻記
「それにしても、まったく酷い方だ。蘇芳殿が約束の刻限になっても姿を見せないから、私が探さなきゃならない羽目になったじゃないですか。勘弁して下さいよ。朱雅様の側付きとしてはいつでも側にあるべきというのに···」
青年はぶつぶつ言いながら
糸を器用に操り他の男たちの針も手際よく引き抜いていく。針を抜かれたものたちは次々その場に倒れた。皆気を失っている。
「それに、蘇芳殿。こんな雑魚に暗器使うなんて勿体ない事しないで下さいよ。唯でさえ貴女の使うこの銀鋼針は貴重なものなんですから、こんな雑魚斬ったら早いでしょう。情けなんかかける価値もない。この手の連中は一思いに殺って、腹かっさばいて臓器売り飛ばす他に使い道ないんですから」
と青年は、転がっている破落戸を見ながら涼しい顔して、とんでもなく恐ろしい事をさらりと言ってのける。
唯一意識のある男は、少し前にこの青年の事を神か仏と思ったことを撤回した。
(この人たち何?同じ血が流れてるとは到底思えないし、本当に人ですか?)
「私に言わせれば、殺す価値もない雑魚なのよ。私は、私の美学に反する殺生はしないだけ。」
そう言うと、蘇芳は懐から小瓶をとりだすと倒れ込んでいる男に渡す。
「毒消しよ。致死量ではなくても撹蠹(こうと)の毒はしぶといから。それ飲めば痛みも消えるわ。早く飲みなさい。···心配しなくても、あんたらの首なんて取りゃしないわ。二束三文どころか一文の足しにもならないもの」
そう言って、蘇芳は鮮やかに笑ってみせた。
優しい笑みを浮かべているが、彼女からは『飲まないと殺す』的な威圧が放って見えた。
目の前の美女のその笑顔は、普通ならきっとうっとり見とれるものだろうと思ったが、男には、もはや恐怖しか感じない。
男は差し出された毒消しを恐る恐る飲んだ。不思議と痛みが楽になり、息苦しさから解放された。
その様子を青年が、笑みを浮かべながら見る。
「ふふっ、ご安心下さい。蘇芳殿は取らないと言った命は本当に取らない人ですから。だが、貴殿方にひとつ言えることは、遊ぶ相手を選べということですかね。命が惜しければ間違っても、琥蓮の蘇芳に喧嘩は売らない事ですよ。貴晏花街の人間なら常識でしょう」
琥蓮の蘇芳と聞いて、男の顔がみるみる青ざめた。
「こっここ琥蓮!?琥蓮の···蘇芳ってまさか⁉」
男は、目を見開いた。
風の噂で聞いたことがある。
暗殺刺客組織・琥蓮(これん)の筆頭紅士 蘇芳(すおう)
暗殺刺客として『冷月の紅天女』なる異名をもち、やり手の殺し屋や賊たちからも恐れられている凄腕の剣士。
「あっ、貴女が、5年前あの九弦衆の一派をたった1人で壊滅させたという伝説の!?冷月の紅天女様ですと。その一派の力を失ったことで王位戦争の有力層が軒並総崩れになっていく起因に繋がったという。」
王位戦争は、九弦衆が倒れなければ未だに続いていたかもしれない
終戦の足掛かりを作ってくれた人間が蘇芳という名の剣士だという。
だが、ただ一人で総勢5万を超えるとされる奏国最大の武装戦力隊だった九弦衆を壊滅に追い込むというのは、あまりにも現実離れした話であることから民が作った逸話とさえ言われている。
だが、不思議な事にこの花街では蘇芳という剣士は絶対存在すると皆口を揃えていう。
しかし、どうみたって目の前の娘は、若すぎる。今でこそ18かそこらの娘が伝説の剣士だとは信じがたい。
「にわかには、信じがたい。そんな顔ね?特別に、教えてあげるわ。5年前何故私が、伝説の人になったのか。それはね····」
男は、話始めた蘇芳の瞳が一瞬光るのを見た。紫に輝く瞳を見たのを最後に男は意識を失った。