プリテンダー
「遅かったな。」

リビングに入った瞬間、杏さんがこちらに目も向けずに言葉を発した。

まさか今日に限って、こんなに早く帰宅しているとは。

「定時で上がったんじゃなかったのか?」

さすがデキる部長…。

部下をよく見ていらっしゃる。

「そうなんですけどね…。途中で知り合いに会って、少し話し込んでしまいました。それから買い物に行ったので…。」

「そうか。あんまり遅いから心配したじゃないか。」

「すみません…。」

この間会議室でのキスシーンを見られた女の子とチチくり合ってたなんて、杏さんには口が裂けても言えないよ…。

ふりとは言え、僕は今、杏さんの婚約者なんだから。

「急いで夕飯作りますね。」

杏さんは気にも留めない様子でノートパソコンに向かっている。

罪悪感と、言い様のない虚無感。

僕が今まで、どこで誰と何をしていたかとか、気にしてくれたりはしないのかな。

いや、思いきり詮索されたら困るのは僕なんだけど。


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