プリテンダー
最後にもう一度だけ
翌日の夜。
夕飯の後、杏さんは黙って僕に何かを差し出した。
手の中のそれを僕の手に握らせて、杏さんは静かに笑った。
「なんですか…これ。」
僕は握りしめた手を開く事もできないまま尋ねた。
「鴫野が前に住んでいた部屋の鍵だ。明日、この部屋に来た時のように鴫野が会社に行っているうちに引っ越しを済ませておく。長いこと世話になったな。」
「……。」
「婚約者のふりももう終わりだ。いろいろ我慢させて悪かった。これで鴫野は自由だ。誰と付き合っても咎められる事はない。」
突然突き付けられた言葉に、僕は茫然と立ちすくんだ。
これで終わりなんだ。
もう偽物の婚約者としても杏さんのそばにはいられない。
「……鴫野との生活は…楽しかった。」
「杏さん…僕は…。」
あなたが好きです、と言いかけて、その言葉を飲み込んだ。
僕の気持ちを知ったところで、杏さんにとっては何ひとついいことなんてない。
「ひとつだけ…鴫野に謝らないといけない事がある。」