プリテンダー
その日、社内では杏さんの退職が告げられた。

突然現れた新しい部長はちょっと偉そうな50代のメタボなおじさんだった。

メタボ部長はあれこれ偉そうに口出しするばかりで、これと言ってたいした働きはしない。

若くて美人で仕事のデキる部長だった杏さんとの差がありすぎて少し戸惑う。

いつも仏頂面で仕事には厳しかったけど部下の事はよく見ていて、美人なのに自分の細かい事にはあまり関心がなくて、ホントに変わった人だった。

もう杏さんがデスクでカロリーバーをかじっている姿も、朝オフィスの床に寝転がっている姿も、見られない。

僕の作った料理を珍しそうに眺める姿も、料理を口に入れて瞬きする姿も、食べ終わった後に穏やかな顔で手を合わせる姿も、もう見られない。

僕の作った料理はどれも美味しいって言ってくれたっけ。

僕が作ったから美味しいんだよ、って。

僕が作った料理をもっと食べたかった、って。

できればこの先もずっと、杏さんに僕の作った料理を食べて欲しかった。

二人で向かい合って、食卓を囲んで。


もう聞く事のない、杏さんの“美味しかった、ありがとう”って言葉を、最後にもう一度聞きたかった。




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