プリテンダー
僕は床に正座をして、杏さんに向かって頭を下げた。

「杏さん…すみませんでした。」

「……なんの事だ。」

「金曜の夜の事です。あの日、僕を送ってくれたのは矢野さんじゃなくて杏さんだったんですね。」

「そうだが…何か?」

杏さんはしらを切るつもりなのか、知らん顔をしている。

「僕…杏さんにひどい事しましたよね?」

「……そうだな。」

「酔っていたとは言え、僕のした事は人として許される事じゃないです。本当にすみませんでした。」

額を床に擦り付けながら謝ると、杏さんはため息をついた。

「鴫野、何をしたか覚えてるのか?」

「いえ…失礼ですけど、ハッキリとは覚えてません。でもこれ…杏さんのですよね?僕のベッドに落ちてたんです。」

ボタンを差し出すと、杏さんはそれを指でつまみ上げて、手の中にギュッと握りしめた。

「覚えていないか…。あれだけ酔っていればな…。」

「すみません…。できればお詫びというか、償いの意味を込めて何かしたいんですが…。」

「償いね…。それは鴫野が…。」

そこまで言って、杏さんはゆっくりと立ち上がった。

「顔洗ってくる。」

「ハイ…。あ、今日も弁当作ってきましたから!」

僕がそう言うと、杏さんは何も言わずに軽く右手を挙げた。

オフィスを出ていく杏さんの後ろ姿を眺めながら、僕は小さく息をついた。

杏さんは一体、何を言おうとしたんだろう?





< 58 / 232 >

この作品をシェア

pagetop