プリテンダー
もしかして、杏さんがいつも食事に時間をかける意味がわからないって言うのは、幼少期の食事の記憶がトラウマになってるとか…。

「必死で頑張ったんだがな…そのうち食べ物をまったく受け付けなくなって、人目が怖くて部屋から一歩も出られなくなった。それでもみんなと食卓につかなくて済むのが嬉しかった。5歳の頃の話だ。」

「5歳の頃…。」

幼い子供が、物を食べられないより身内と食卓に着く事の方がつらいなんて。

きっと杏さんは、幼いながらに相当苦しんだんだろう。

「そんな事があって、今でも人と食事をするのは苦手だ。仕事の付き合いで食事をする時も、できるだけ量の少ない懐石料理の店を選ぶようにしている。」

ああ、だからか。

一緒に飲みに行った時に、杏さんが枝豆を注文した事を思い出した。

「だから杏さん、自分のペースでチビチビ食べられるのがいいって言ってたんですね。」

「そうだな。」

杏さんはゆっくりお茶を飲んだ。

「空腹は感じても、食べたいとはあまり思わない。ちゃんとした食事なんかしなくても、必要最低限のカロリーと栄養さえ摂っていれば生きていけるしな。」

「だからカロリーバーですか?」

「材料を揃えたり、作ったり食べたり、食事に時間をかける必要がなければ、その時間を別の事に使えるだろ?」

「だからって、それでは寂しいでしょ…。食べるのは人間の基本ですよ。人間の体を作ってるのは食べ物ですからね。」

僕がそう言うと、杏さんは少し笑った。


< 78 / 232 >

この作品をシェア

pagetop