リナリア
* * *

 本当に一時間たらずでやってきた。伊達眼鏡こそしているが、顔はばっちり伊月知春である。

「…よくバレませんでしたね。」
「電車の中ではキャップ顔に置いて寝てたからね。」
「…なるほど。あの、ちょっと屈んでもらってもいいですか?」
「うん。」

 名桜の言葉に、知春は素直に従って少し屈む。名桜は手が届くようになった髪に触れた。

「少し髪、いじりますよ?」
「お好きにどーぞ。」

 整髪料がほどよくつけられていただろう、整えられた髪をぐしゃっと崩して、伊月知春らしさを削いでいく。

「眼鏡は絶対しててください。あとキャップも目深にかぶってください。」
「わかってるよ。それで、この後どこ行くの?」
「父が母を撮影した場所に行こうかと。」
「今まで調べたことなかったんだけど、名桜のお母さんも十分有名人だったんだね。」
「…もう12年も前に亡くなってますし、知春さんは知らなくて当然というか…あんまりもう知っている人はいないかもしれませんね。母は…。」
「女優の早瀬由紀(はやせゆき)さん。」
「はい。父は母の最初で最後の写真集のカメラマンです。今から行くのは、その撮影地ですね。」
「麻倉さんの奥さんが亡くなってるっていうのは知ってたけど、まさか女優さんだったとは。しかも、人気絶頂の時に突然引退したんでしょ?」
「そのようですね。私は芸能人としての母については疎くて…。私にとって母は母でしかなくて、女優じゃないんですよ。それに、母を亡くしたのも5歳の頃なので…。」
「そっか。じゃあ、とりあえず麻倉さんと早瀬さんの思い出の場所にまずは行こう。」
「はい。」

 一人で大丈夫であるのは嘘ではないけれど、こうして知春が来てくれたことにほっとする自分も嘘ではなかった。当たり前のように知春が隣を歩く今に、不思議と違和感がなく、名桜は小さく口元を緩めて歩き出した。
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