リナリア
* * *

『だって、演技であって演技じゃない』からね。

 とは言えなかった。そんなことを言って今の名桜をこれ以上混乱させることはしたくないし、優しいひとだからこそ、自分のことでまで傷ついてほしいとは思わない。

「…ありがとう。」
「こんな感想で、大丈夫ですか…?」
「自分の経験したことを俺に重ねることができるくらいには真剣に見てくれたわけじゃん?充分ありがたいことだよ。忙しいのに、ありがとう。」
「…忙しいのは、知春さんの方です。」

 ぐすっと鼻を鳴らして、シャツをぎゅっと握ったままの名桜を見て、いつもの仕事ぶりを思い出すことの方が難しい。出会ってすぐにはがされた自分の素顔。今見ているこの表情は、きっと名桜が初めて他人に見せる『素顔の一つ』なのだろう。そう思えば自分だけではない気がしてちょっとだけ嬉しくもなる。

「落ち着いてきた?」
「…わかんないです…止まったなって思ったらすぐ戻ってくるので…。」
「うん。わかるなぁ、それ。」

 随分前に、一度だけ今の名桜みたいになったことがある。それから時間をかけて、少しずつ気持ちを抑えるように心がけて、ここまできた。今の自分は名桜みたいにはもう泣けない。

「…いいよ。思う存分泣いたら?俺も、そうだったから。」
「え?」
「今しかできないから、今やった方がいいよ。」
「…はい。」

 涙の音が強くなった。遠いあの日を思い出して、知春は天井を見上げた。
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