猫とアトリエとペパーミント
 共感覚という知覚現象がある。音に形や色を感じる、文字から立体をイメージする、目で見た人を触っていると感じる。1つの感覚を感じると、もう1つ別の感覚を感じるのだとか。珍しい現象ではないようで、このような感覚を持つ人は少なくないのだとか。
 私は色から味覚を覚える。赤は甘い、青は酸っぱい、黄色は優しい苦味。1つ1つの色の味は大したことないが、絵画を見ると、それは1つの完成された料理となって味覚を刺激してくる。
 目の移る順番に味が刻々と変化する。桃色はとても甘くて、スカイブルーはほんの少し酸っぱい。幹の茶色が少しえぐみを着けていて、結局私の舌からは今、金平糖の味がした。

「満足満足」

 頷いてから部屋の仕切りを開ける。借りているアパートは狭くはないが、一間を区切る仕切りを閉めると圧迫感がある。私は仕切って奥の部屋をアトリエとして、玄関のある手前の部屋にベッドや机などを押し込んだ。玄関側の生活空間はとても窮屈。あまり人を呼べない。
 とにかく手を洗おうと洗面台に向かい、蛇口を捻る。目の前の鏡で顔に絵の具が着いていないか確認する。確認し蛇口を閉めて、タオルで手を拭いていると、微かな振動音が耳に届いた。
 ハッとまたアトリエに向かった。スマートフォンを手にすると、やっぱりお父さんからで、今度は電話だった。慌てて通話ボタンをタップした。

「も、もしもし!」
『さくら子ちゃん?お父さんだけど。今から迎えに行くからね。もう準備バッチリかい?』
「う、うん!バッチリー!」

 着替えどころか化粧もしていない。あわあわと通話しながら、鏡の前に移動して化粧下地を肌に塗り込む。途端に歯磨きをしていなかったことを思い出して、じんわり目尻が暖かくなる。泣きたい。

『じゃあ、あと30分ぐらいで到着するからね。待っててね』
「あ、お父さん」
『どうした?』
「気をつけて、ゆっくり来てね」

 コンパクトを開いて、パフにファンデーションをとる。右の頬からてきぱきと塗っていく。

『…まさかさくら子ちゃん、まだ準備してないとか』

 プツンと音が消える。スマートフォンが鬱陶しくなってきたからだ。傍らのベッドにスマートフォンを投げて、化粧に集中する。大丈夫、まだあと30分もあると言い聞かせながら。
 化粧が終われば歯ブラシを口に入れながら、髪の毛を整える。本当に整える程度で、近くにあった髪ゴムで1つにまとめる。もういいや。洗面台から離れる。
 きちんとしたパーティーに着ていける服と言われると、1つしか思い当たらない。アトリエ側にある備え付けのクローゼットから黒い包みを取り出した。大学の入学式以来、一度も袖を通していないリクルートスーツだ。


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