手に入れる女
「ここの店、いつも通勤客で混んでるじゃないですか。だからなかなかこの席に座れないんですけど、今朝はたまたま空いていたのでラッキーと思ってぼーっとしてたらケータイ落としちゃったみたいですね。結局ラッキーじゃなかったのかな。」

少し首をひねった優香の顔は、30過ぎの女にしては屈託のない無防備な顔だった。

「落としたケータイが戻って来たんだからすごくラッキーなんだと思いますよ。」

佐藤の返事を聞いて優香は嬉しそうに微笑んだ。

「そうですね。またここの席に座れたし。なんだか佐藤さんのお陰でいい一日になりそうです。」
「どうしてここの席がそんなに好きなんですか?」

佐藤はふと思いついて優香に聞いてみた。

「ここの席って外がよく見えるじゃないですか。私、街を歩く人を眺めるのが好きなんです。皆、頑張って働いてるんだなーって思うとちょっとやる気が出てくる気がしません? 特に、出勤するのが憂鬱な朝は、他の人が頑張ってるのを見ると少しだけ元気が出てきます。」

「ああ、何となく分かります。大変なのは自分だけじゃないんだ、よし、がんばろう、みたいな?」

「そうそう、そういう感じ。だから都会の雑踏って私、結構好きなんです。実を言うと、寒い冬の朝早くに来て、温かいコーヒーを飲むのが一番好きなんです。
店に入った時の暖かい空気ってすごくほっとするじゃないですか。そういう朝のコーヒーは格別ですよね? あっ、何か私ばっかり夢中でしゃべってますね。佐藤さん、退屈じゃありません?」

「いえいえ、小泉さんの話は明るくて、こちらの気持ちも和みます。」

優香は生き生きとしゃべる、表情豊かな人だった。彼女の顔をみているうちに、佐藤はコーヒーをすっかり飲み干してしまう。佐藤にはあっという間のように感じられた。

コーヒーを挟んで一日中でもおしゃべりが続きそうな雰囲気であったが、佐藤は、これ以上職場を抜ける訳にもいかないと思い直し、空のコーヒーカップを手にようやく重たい腰を上げた。
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