僕が君の愛

 カウンター越しに女性へ指輪を差し出していた肇の姿。
 その映像が、記憶の中に閉じ込めていたはずの『痛み』を蘇らせていた。紫煙の香りが『それ』を掠めることはあっても、疼くことはなかった。思い出すのはキレイナ思い出ばかりだったはずなのに。加織の真ん中へ深く根をはる大きな『棘』――彼がくれた優しい言葉と傷つけられた嘘。

 鞄を握る力が知らず知らす強くなる。このまま店に滞在していても、自分には何の利益ももたらさないであろう。むしろ谷底に付き落とされ、再び上を目指すためには耐えがたいほどの負傷を覚悟しなくはならないのではないか。そんな予感すらあった。早く、この店から離れるべきではないのか。

 加織が目の前にあるテーブルを眺めながら、思考の渦に飲み込まれそうになっていると、視界の隅に階段を上がってくる明良の姿が映った。
 そしてテーブルに置かれたのは、小皿に盛られた生チョコレートと柔らかな湯気が立つ琥珀色の飲み物。側に立つ明良を見上げ、加織は少し首を傾げた。

「あまり食欲がないのではないかと思いまして。これなら、口にできるかと。葉巻にも合いますしね」
「……食欲ないって、なんで?」
「俺もここの店員ですよ。お客様の話は些細な事も記憶しています」

 口元で綺麗な弧を描き、甘い香のするチョコレートと紅茶を残し、明良は階下へと姿を消していった。
 明良は香織よりもいくつか年下であったと思う。肩まであるストレートの髪を綺麗な金色に染め、無造作にひとまとめにしている。初めて彼を見た人々が、性別を間違えてしまうほど整った顔をしていた。その容姿のせいなのか、理由は定かではないが、客と色々問題を起こしたこともあるらしく。本人は、自分が望んで手に入れたのは金に染めた髪と料理の腕だけだ……と、こぼしていたことを加織は思い出していた。

 盛られているチョコレートをひとつ摘み含む。口の中で少しずつ溶けてゆくモノを飲み込もうとしたが、喉に何かが詰まって仕舞ったかのように嚥下することが出来なかった。加織は意識を喉元に集中させ、口腔内のものを苦労しながら嚥下する。
 チョコレートではなく。まるで鉛でも飲み込んでいるかの様に。加織の身体の、どこにだかわからない場所へ沈殿し、重みを増してゆく。

 覚悟など出来ていなかったのに。杞憂だと分かり、安心してもいいはずなのに。落ち込んでいるのは、あまりにも身勝手ではないだろうか。まるで、裏切られたヒロインのように。
 思わず苦笑が浮かぶ。やはり、今日はこのまま帰ろう……と加織が腰を上げた時だった。
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