僕が君の愛
ただ。自分は幸せになりたかったはずなのに。自分を大切に、真綿の様の包み慈しんでくれる人に会いたかった。偽りなくだ。
相手の都合に振り回される恋ではなく、自分の意思の元に。
今の自分は間違いなく、肇の香りに惑わされている。加織にはその自覚があった。紫煙を眺め、昔の男を思い出し、古傷が疼くよりも。今では身体や心に染み付いた肇の香りが残っている方が怖かった。
だからこそ悩み苦しんでいる。まだ、崖の淵に立つ今ならば、引き返すことが出来るはずだ。
もう二度とあの店にも、肇にも会わない。どれ程時間がかかるかは分からないが。忘れられる、いや、忘れてみせる。1ヶ月経った今はまだ無理だとしても。時間が解決してくれるはず。
加織は、再び煙草を取り出し、火を点けた。
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目の前にある建物を眺めながら、加織はこの場を乗り切る方法を模索していた。しかし、急に妙案が浮かぶほど、現在の加織の脳は冴えていない。夕日を反射している烏のプレートが、加織を嘲笑うかのように表情を変えた気さえした。それほどまでに、加織は追い込まれているのだ。
「この店です。評判が良いと後輩に薦められて。料理も上手くて店の雰囲気もイイと。加織さんは、葉巻も嗜むと聞いていたので、是非一緒に来たかったんですよ」
「はあ、そうですか」
加織の隣に並び、嬉々とした表情で解説をくれたのは、犬養であった。昼休み中に、本日の予定を聞かれた加織は、もちろん予定は何もないと返信していた。そして、食事に誘われたのだ。
本日、加織はVネックの透かしが入ったニットと濃い目のショートパンツだった。ニットにはラメが入りお気に入りでもある。デートには若干カジュアルな気もしたが。加織は犬養の誘いに承諾した。
消防士も、現在は喫煙に厳しくなってきていると、加織は耳にしていた。だが、犬養は葉巻を趣味としている。楽しみ方も吸い方も、煙草と葉巻では異なるからだろう。煙草は吸わなくとも、葉巻だけは嗜むと言う人は少なくはない。そこも加織が興味を惹かれた点でもあったのだが。今はそれが仇となっている。まさか。肇が経営するシガーバーにつれてこられるとは。自分の意思ではないにしろだ。
二度とこの場には来ないと、決意を新たにしたばかりだと言うのに。
目の前のシガーバーを避けるための言い訳が浮かばない自身を恨みながら。ひとつ大きな溜め息をこぼし、加織はカラフルな硝子で彩られた小窓の付いたドアを開ける犬養に続き、店内へと入っていった。