僕が君の愛

「いらっしゃいませ」

 約1ヶ月振りで耳にする肇の声。ただそれだけなのだが。溢れそうな想いが姿を変え、眸から落ちそうだった。本日のこの苦行は、因果応報なのだろうか……。自分を大事に思うあまりに、勝って気ままに振舞い、振り回してしまった今までの自身のせいなのだろうか。
 自身を過ぎったひどく後ろ向きな思考に、加織は情けなく思う。

 カウンター内にいる肇の姿を視界に入れる勇気は、加織にはなかった。ここへ加織が訪れる際は、いつもひとりであった。加織の憩いの場。だが……。
 異性を伴い、初めて来店する加織の姿を、肇がどんな眸で見ているのか。想像するだけで、自身の心臓が小さくなる思いだ。それが安堵によるものであれ、怒りを伴うものであれだ。

 顔色を失い俯く加織を、隣にいる犬養は気づくことはなく言葉をかける。

「カウンターがいいですかね。色々と葉巻の面白い話が聞けるかもしれませんよ。ここはスタッフも優秀らしい」
「いえ!テーブル席にしましょう」

 自身で思うよりも、強い言葉を口にしてしまった加織は一瞬戸惑う。自身の動揺を誤魔化すように、犬養の返事を待つことはなく加織は足を進める。勝手知ったる店内を。カウンターから一番遠いテーブル席へと。

 ※※※※※※

 久し振りに。開店直後から出勤していた明良は、拭いていたグラスを危うく落としかけていた。まだ込み合うには早い時間帯。店内には2組の客、5名だけ。どちらも常連であり、カウンターに座る客は、オーナーである肇との会話を楽しんでいた。
 店内に響いた戸を開閉する音。それを出迎える肇の言葉を耳にし、明良は酷く驚くことになる。常連客のひとりである加織が。1ヶ月振りに姿を見せた加織が。初めて異性を伴い来店したからだ。
 店内の隅にある、大きな観葉植物に隠れるように設置されたテーブル席。そこに座るふたりを確認し、カウンター内にいた明良は肇との距離を縮め小声で話しかける。

「彼氏ですかね。今までは加織さんが誰かを連れて来たことなんてなかったのに」
「どうかなあ。加織さんが意図的に連れてきたとは思えないけれど」

 自身よりも、幾ばか上にある肇の顔が視界に入り。明良は返すはずだった言葉を一瞬詰まらせる。前髪を大きく掻きあげ、息を吐き出した。これから起きるであろう事に対する、諦めのために。

「出来るだけ……。大人な態度でお願いします。常連とは言え、客がいる営業時間ですから」
「もちろんだ。私は40を過ぎた大人だし、紳士だからね」

 口角を僅かに上げ、レモンを搾る肇に、明良は溜め息をもうひとつ溢すことになった。

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