僕が君の愛

 ※※※※※※

 様子を伺っていた明良は、静かな足取りで犬養に近寄る。魂が抜け、この数分で老け込んでしまったかのような。色が薄くなってしまったかのような犬養の傍へ。

「失礼いたします。お客様。もし、よろしければカウンター席へいらっしゃいませんか?」
「明良」

 犬養の返答よりも早く。鋭い声が明良の耳に届く。明良が視線を移せば、左の頬を赤くした肇が、厳しい視線を明良へ向けていた。いつもは優しい雰囲気を感じさせる、少し垂れている肇の眸はなりを潜め。明良を襲うのは異常な緊張感だ。自身の渇きを誤魔化すよう、喉を一度鳴らす。

「なんでしょうか、オーナー」
「お前の携帯電話を寄越せ」
「はい?」
「早く!」

 初めて耳にする、肇の少しだけ荒げた声。明良はエプロンのポケットに収めていた携帯電話を、逆らうことなく肇へ差し出す。それを受け取った肇が、犬養を視界に留めたのだろう。動きが止まる。
 壊れた機械のように。金属の擦れた音が聞こえそうな程のぎこちない動きで。犬養が顔を上げた。肇と犬養、ふたりの視線が絡む。肇が、佇まいを正し、犬養へ向き合った。

「お客様、申し訳ありません。ですが、ご覧頂きました通り、彼女は私の女です」
「……彼女は納得していない様子でしたけれど?」

 まさか。犬養からの口から、反論の言葉が出るとは思わなかった明良は驚きを隠せない。傍で見守っていたはずの明良の身体は、本人の知らぬうちに僅かに後退していた。だが、肇には驚きは見られない。声を荒げた様子など微塵も感じさせない、落ち着いた表情を浮かべている。微笑とも取れるような。

「誤解があるようです。ですが、問題はありません。本日の御代は結構です。お騒がせしまして、大変失礼いたしました」

 肇が、大きな身体を半分に折り、犬養へ頭を下げる。その姿を、無言に眺めていた犬養が、大きな溜め息をひとつ零した。小さな音を立て、席を立つ。

「手強い相手です。あなたを応援する気はありませんが、彼女は大事にしてあげてください。幸せになって欲しい」
「ありがとうございます」

 一瞬、ほうけていた明良は、席を立った犬養の後を慌てて追いかける。カウンターへ促す姿を、姿勢を正した肇が確認し大きく息を吐いた。
 改めて、肇は手にしていた明良の携帯電話を操作し始める。アドレス帳から、目的の人物を見つけたのだろう。携帯電話を耳に当て、相手の通話を待つ。

「あ、こんばんは。突然すみません。私、明良君が勤めるシガーバーのオーナー、烏丸です。ご無沙汰しています」

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