僕が君の愛

 働くことを拒絶した思考の中。先程の瑤子との会話を、加織は思い出す。もしかして。電話の声に異変を感じた瑤子が、深刻さを感じ尋ねてきたのではないかと。通話を終了してから、数分も経っていない。もし、瑤子であるならば、あまりにも早すぎる訪問だ。だが、この時の加織には、それを疑問に思う余裕は残っていなかった。
 普段ならば。絶対にすることはない。相手を確認することなく、戸を開けるという軽率な行為。
 加織は、見えた人物を前にこれ以上に無いほど後悔することになる。何故、相手を確認しなかったのかと。驚きのあまり、眸を大きく見開いた加織の口から、言葉が零れる。

「……どうして」

 居るはずのない。肇の姿が、加織の目の前にはあったから。息を切らせ、髪を乱した肇の姿。肇が、無言で一歩踏み込んでくる。身を引く加織。支えを失った戸は、集合住宅の廊下に大きな音を響かせながら閉じる。玄関という狭い空間が出来上がり、肇と加織は向き合った。ふたりの間には、まだ微妙な空間がある。

「相手を確認しないで戸を開けるのは、感心しないな」
「どうして?」
「話がしたかった。今日話さなければ、手遅れになると。もうこれ以上、君の背中を黙って見送るのも、君が店に訪れるのをひたすら待つことも……私には限界だ」

 肇が、再び一歩踏み込んだことで、ふたりの空間はなくなる。密着する肇と加織の身体。肇の香りに、熱に。身体ごと包み込まれたことで、必死に守り保ってきた加織の鎧が。音を立てて崩れてゆく。

 加織は声を上げて泣いた。まるで子供の様に。呼吸が覚束なくなり、しゃくりあげてしまうほどに。
 熱い、肇の胸に抱かれながら――。


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