僕が君の愛
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 ふたりが出会ったときも、心を通わせた後も。加織はその事実を知らなかった。
 互いが忙しくなり始め、会う時間が作れない日々が続いた頃。あるきっかけが加織に訪れたのだ。
 彼も、仕事による疲労のために失念していたのだろう。それとも、加織の存在が面倒になり始めていたのか。今となっては、どちらが真実なのか判断できることではない。だが、どちらであっても。同じ結果を招いたであろうことは容易に想像がつく。

 一度だけ。たった一度だけだ。いつもはない、見たこともない。車のハンドルを握る彼の左手に、薬指に。ひどくシンプルな、小さな石を乗せたシルバーのリングを見つけてしまったのは。だが、一度だけだからこそ、加織の印象に深く残ってしまった。
 一度疑い出してしまえば、全てが怪しくも見え、納得できる答えへの道標ともなる。
 付き合って3ヶ月以上が過ぎていたが。実家に住んでいるからと、彼の自宅へ遊びに行ったことはない。一緒にいる時にかかってきた電話に、出ないことも時折あった。逆に、帰宅しているであろう時間帯にも関わらず、加織の電話にでないことも。
 疑問を抱きながらも。その時の加織には、『彼』へ問う勇気がなかった。女の勘とでも言うのだろうか。一度見た指輪は何なのか。それを聞いてしまえば。もう、後戻りできないような、大きく道を踏み外してしまうような気がしていたから。

 だが、それを。加織はひっそりと自身の心に留めておけるほど、大人でもなかった。
 ある日、加織は言葉にしてしまった。ひどく些細なことで派生した。寂しさ故の小さな不満がぶつかりあう喧嘩。
 左手に光る指輪を見たのだ――と。
 一瞬の間のあと、『彼』は言った。加織を壊れ物のように、大事そうに抱きしめながら。

「妻とは、離婚するつもりでいる」
「学生時代に、子供が出来てしまったために早くに結婚したが、後悔している」
「一番大事なのは、加織だ」
「信じて欲しい」――と

 世界が暗闇になった。瞬きひとつの間で。
 人生で初めて。加織自分が選び、そして加織を選んでくれた『彼』。それは嘘だったのだ。全てを曝け出し、全てを投げ出したのは、加織だけだった。加織が見ていた『彼』は、嘘と言う熱で生じた陽炎でしかなかった。
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