僕が君の愛
「ひとつ、加織に話しておきたいことがある」
「なんですか?」
「……確かに。私には結婚歴がある。だが、それはもう何年も前に終わったことだ。私には、加織以外に、今も尚、生涯を誓い合った女性はいない」
「え?でも、指輪は」
「指輪は指輪でしかない。それ以上でもそれ以下でも」
肇の発言に。加織は驚き眸を丸くする。臥床していた身体を起こし、肇の眸を覗き込んだ。それに、嘘の色は見えない。
「数年前、明良とお客様との間で起きた話は知っているかい?」
「女性客と何かしらのトラブルがあったって……」
「そう。明良はあの容姿だからね、言い寄る女性は少なくはない。明良も自覚しているから、気をつけてもいる。常に、お客様と従業員として、一線をひいて接していることは、私も十分理解している。けれど、人の感情は、時として自身でもコントロールが効かなくなるものだ。故に起きたことだった。その時だ。これを私の友人から提案されたのは」
肇は、視線を自身の左手に落とす。右手で、薬指に鎮座していた指輪を、ゆっくりと外した。2本の指で挟めたそれを、加織の目の前に差し出す。変わらず、鈍い光を反射するそれ。苦笑を浮かべた肇は、指輪に視線を向けたまま言葉を続ける。
「男が思うよりもずっと。女性は男性の薬指の指輪の有無を気にしているものだと。存在は小さくとも、大きな抑止力になるだろう。明良に、相手がいると分かれば、女性たちの反応も変わってくるはずだと言ってね。経緯は違えど、私も当時困っていたんだ。離婚についていらぬ詮索を受けることに。見かねた友人が助言をしてきた。どうせなら、このシガーバーの従業員は既婚者しかいないということにしてしまえばいいと」
「そんな……」
「それほどまでに効果があるとは思ってもいなかった。私には、忘れてしまった過去の産物でしかないから」
肇は、指輪を自身の胸のポケットに落とした。姿を消してしまったそれ。小さな存在を失った左手で、肇は加織の頬を包んだ。加織の唇が、小さく震える。
「どうしてもっと早く言ってくれないのよ」
「うん」
「どれ程私が悩んだか。諦めようと自分に言い聞かせたか」
「すまなかった」
「もう、ひどいわ!ばか!」
「そうだ、私は君に溺れた愚か者だ。救えるのは君しかいない。愛しているんだ、加織」
肇は再び加織を腕に閉じ込め、耳元で何度も口にする。「愛している」と。肇の腕に抱かれながら、加織は何度も頷く。先ほどと、同じように頬を伝う涙。だが、涙に浮かぶ色は全く違う。