ボレロ 第二部 -新世界ー


つわりがひどく、一時は入院したが、ようやく落ち着いてきたそうだ。

それらは珠貴から聞いていたが、子どもを持ったことのない身としては、「大変だな」 と漠然とした思いしかなかった。



「そうじゃない」


「うん?」 


「平岡の親父さんだよ。倒れたそうだ」


「なに? 本当か!」


「別居してから生活も不規則で、過労も重なって倒れたそうだが、栄養失調だったというじゃないか」


「世話をする者はいなかったのか」


「一人が気ままでいいと言って、誰も寄せ付けなかったらしい」



息子の結婚問題がきっかけで夫婦の溝が深まった平岡の両親は、別居という形を選択した。

家を出たのは父親の方で、日々の食事の準備や身の回りのことにも不自由しているというのに、母親は使用人がいる家で変わらぬ生活を送っているのだと、狩野がぼやくように教えてくれた。



「どうしてお前がそんなことを知ってるんだよ」


「平岡のおふくろさんが、趣味仲間の食事会にウチのホテルを使ってくださった。  

そのときだ、聞くともなしに聞こえてきたんだよ。

夫も少しは私のありがたみがわかったでしょう、とそんな発言だった。

男の方の一人暮らしはお辛いでしょうねと、お仲間のご夫人たちが、同情だか非難だかわからない受け答えをしていたが、 聞いてるこっちはやりきれなくてね。 

平岡にそれとなく伝えたが、ちょうど蒔絵さんの体調が悪いときで、あいつも動けなかったらしい」


「そんなことがあったのか……なるほど、それで……」


「それで、なんだよ。うん? 先を言えよ」


「親父さんの会社を手伝いたいと言っていた」


「平岡が? あんなに反発していたのに? 

親父さんの跡は継がないと言って、家出同然で結婚したんだぞ。あのおふくろさんが許すはずないだろう」


「両親の離婚の話が出ているそうだ。時間の問題だといっていたが」


「はぁ……そこまで話がこじれていたのか。やるせないね」


「しかし、親父さんが心配だな」


「平岡の力になってやりたいが、どうしたものか」


「二人とも難しいお顔をして、どうなさったの?」



いつの間にそばに来たのか、珠貴が話に加わってきた。

「この不景気はいつまで続くのかと、ふたりで嘆いていたところですよ」 と狩野がとっさに話をそらしたのち、 新しい話題を持ち出した。



「香港、行くんだろう? クリスマスシーズンに行くつもりだと言ってなかったか?」


「そのつもりだったが、家で過ごすことにした」


「行けばいいじゃないか。クリスマスシーズンの香港の街は、一見の価値があるぞ」


「素敵でしょうね。でも、私たちはいつでも行けますから、また次の機会に、ねっ」


「うん、年末年始は恒例の 『吉祥』 で家を空ける。クリスマスは家で過ごそうと思っている。

家も新しくなったことだし、にぎやかな方がいいと思ってね」



新婚旅行のクルーズで立ち寄った香港で、「クリスマスの頃、ぜひお越しください」 と誘われた。

そのときは、私も珠貴もそのつもりでいたが、大叔母とともに暮らすことになったため予定を変更したのだ。

家族が集いにぎやかにすごすクリスマスに、大叔母を残して旅行に出かけることに、私も珠貴もためらいがあった。



「そういうことか……大叔母さまは幸せだな。家族が増えていくのはいいものだ」



狩野がしんみりとした声でもらしたあと 「近衛」 と呼ばれた。

いかにも内緒事を語る顔で、珠貴のそばから私を引き放すと、余計なことだが……と前置きして声を潜めた。



「今夜は覚悟しておけよ。そろそろでしょうとか、まだですかと、散々言われるはずだ。

言ってる方は新婚の二人への常套句だと思っているだろが、言われる側はたまったものじゃない。

適当にやり過ごせ。ただ、おまえより珠貴さんの方が風当たりが強いだろう、風よけになれよ」


「わかった」



似たような経験があるから言ってくれたのだろうが、言いにくいことをさっと口にした親友は、私の肩をポンっと叩いて離れていった。 

結婚してからと言うもの、「お子さんは?」 と方々で言われてきた。

前後して結婚した平岡と蒔絵さんに子どもが授かったとわかると、その声はより大きくなってきた。

狩野が言うように、結婚直後から挨拶代わりのように言われ、またか……とうんざりしていたが、気にせずにいた。

だが、珠貴は私より深刻に受け止めているはずだ。

珠貴の元へと戻り、何か聞かれるのではと思ったが、



「みなさまがいらっしゃるまで、少し時間があるわ。お茶でもいかが?」


「うん、もらおうかな」


何事もなかったように話しかけ、私もいつもの顔で返事をした。

お茶と言われて紅茶かと思っていたが、煎茶が出てきて 「お茶だったの?」 と聞き返した。



「落ち着くのは、やはり日本茶ね。タキシードとドレスには不似合いでしょうけれど」


「日本人だからいいんじゃないか?」


「そうよね。ねぇ……聞くつもりはなかったのよ。でも、聞こえてしまったの……ごめんなさい」



やはり狩野とのひそひそ話が気になったのかと、ひとり納得していると、意外な質問があった。



「平岡さんのお父さまのこと、教えてください」



この話を私に聞きたくて部屋に誘ったらしい。

隠すことでもなく、むしろ珠貴には話したほうがよいと思い、狩野から聞いた話を聞かせた。

聞き終えたあとの顔は沈み、ため息をひとつついただけで言葉はなかった。



「今後のことは平岡が考えるだろう。蒔絵さんから相談があれば、珠貴も聞いてやってくれないか」


「えぇ、そのつもり。事情があるでしょうけれど、ご家族が離れ離れになるなんて、寂しいわね……

クリスマスは、大叔母さまやみなさまと、楽しく過ごしましょう」


「そうだな、にぎやかに過ごそう」



肩に頭を乗せてきた珠貴の体を抱き寄せた。

髪に唇を乗せ、頬に手を添える。

私の動きがわかったように珠貴の顔が上向き、近づいてきた。

そろそろ客が到着する頃だ。

迎えに出なければと思いながら、吸い付くように重なった唇を離すことはできなかった。

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