星月夜


 秀星が結婚……?

 心のどこかで、彼はピアノだけを弾いて生きていく人なのだと思っていた。それは都合のいい思い込みだった。


 それからどうやって帰ったのか覚えていない。

 一人アパートの中に立ち尽くし、電気もつけず何時間もそうしていた。


 周りには結婚してる友達も何人かいる。そういう話が出てもおかしくない。ピアノの才能はもちろん、人としても秀星は魅力的だったのだから。

 それに、私にも結婚を意識する相手がいる。今さら秀星をどうのこうのなんて思わないはずだった。


 それなのに、なんだろう、この胸の痛みは。

 血が出るように痛い。

 これを俗に『頭を殴られたほどの衝撃』というのだろうか。

 ……そうだ。私はいつも望んでいた。秀星と歩く現在(いま)を。なのにそうできなくて、どんどん目的からズレていく出来事に対応しきれなくて、結局投げ出した。


 これは、あの頃自分を省みなかった罰。

 現実はどこまでも厳しかった。

 お母さんが大切にしてた物。ムーンストーンの指輪に涙が滴る。

「嫌だ、こんなの……。こんなはずじゃなかったのに……!」




 ーーーー。

 ーー…。


「月海! 起きなさい。朝よ」

「うん……。もう少しだけ。昨夜なかなか寝付けなくて」

 懐かしい。お母さんの声で起こされる朝。ダイニングから漂うトーストとハムエッグの匂い。

 ーーえ?

 
< 19 / 75 >

この作品をシェア

pagetop