天に見えるは、月
本社内異動の人間は内示の翌日、異動になる部署に挨拶に行く決まりになっている。香凛もそれにのっとって、まずは営業部長の部屋に挨拶に来ていた。
「橘さんの評判はあちらこちらから聞いていたからね、営業一課でも立派に仕事をこなしてくれると思ったんだよ」
「評価していただいて、ありがとうございます」
営業部の岩佐(いわさ)部長は、一癖も二癖もある営業部の人間を取りまとめているとは思えない程、おとなしい印象だ。彼は親会社の中菱商事から出向している社員で、ここでのし上がった人間ではないからかもしれないけど、ちゃんと部をまとめられているのだろうかと心配になってしまった。
岩佐部長は然程暑くもないのにハンカチで額の汗を拭っている。実夏に『岩佐部長は“コロちゃん”ってあだ名なんだって』と聞かされたが、確かに身長は低めで体つきは丸くコロコロしている。
「……あの、配属になる前にどうしてもお聞きしたいことがあるのですが」
「何かな?」
納得いかない部分をうやむやにしておけない性格だから仕方がない。香凛は黒木課長に出してもらえなかった答えを岩佐部長からもらうことにした。
「今回、営業一課に女性正社員を配属する理由はどういうものなのでしょうか」
「……え?」
「いえ、自分がここで本当に務まるのか、かなり不安なもので……」
コロちゃん……いや、岩佐部長は困惑した表情を見せて俯いた。聞いてはいけなかったのだろうか。でもどういう意図で今回の人事になったのか、やはり理由ぐらいは知っておきたい。
岩佐部長はしばし無言で汗を拭いてから、ゆっくりと顔を上げた。