うわさの神小牧さん
大輔。経理課へ配属される
「本日よりこちらに配属されました望月大輔です。よろしくお願いします」
 弱弱しい声で挨拶をすませた。
 入社して1ヶ月の研修を終えて、いよいよ仕事だというところに配属先を聞いてがっかりした。
 大輔は営業を希望していたが、なぜか経理課に配属された。
「なんで俺なんですか」と大輔は人事担当者にかけあってもみた。
「数字に強いって面接で言ってたでしょ?」とかわされた。
 しかし、経理課に新人の配属なんてここ十数年ないとの話だ。
 納得のいかないまま、大輔は配属先での初日を迎えていた。
「はい、よろしく。じゃ、席は神小牧くんの隣ね」
「はい」
見た瞬間、大黒様を想像するような小太りの総務課長。しかも名前も惜しい、小黒課長が恵比寿顔で指差した先の席に半分と歩いて座る。
 それよりも何よりもこの配属に不満たらたらだった大輔は、ぼんやりとその指された席に近づいて放心状態で座った。
「そこ」左隣から聞こえた。
「え?」
「そこ。5ミリ私の方に進入してる」ものさしで指された箇所を見る。
 わが社のデスクはユニバーサルデザインなので、一枚の長い板がデスクだ。その下に可動式の袖机を置き、席を替わる時も袖机を移動すればすむようになっている。その長い板のデスクを三名で使用していた。大輔の席は右端だった。
 良く見るとその天板にうっすらだが、線が入っていた。その線の上に今、大輔が置いたカバンの角が少しのっかっていた。
「これですか?」バッグの角を指差して、そのものさしの持ち主に目を向けた。
その横顔はこの世のものとは思えないほど、整っていた。肌は陶器のようにつややかで、唇は大きくも小さくもなく、ふっくらと光輝いている。鼻の高さはおそらく計算されつくした理想的な高さなのではないかと思えるほど一部の隙のない鼻筋で、思わずつばをごくりと大輔は飲み込んだ。
しかし、その容姿とはまったく合わない冷たい声。しかも、腕にはお役所の人がやっていそうな黒い腕抜きをしていた。
「ぜったいここから入らないで」
「はぁ」
 大輔は配属先のみならず、この会社に入ったことを後悔した。

「大輔、知らないのかよ? うわさの神小牧さん」
 同期の国重悠が枝豆を口に放り込みながら、(そんなことも知らないなんてお前、奈にやってんだよ)という言葉が聞こえそうなほど目を大きく見開いて驚きを隠さずに言った。
「知らない。何? うわさって。すっげ~いじわるとか?」

「お前、見てわからないの?」 
 国重は心底呆れたように大輔の顔を見た。
「あぁ…美人だったような気はする」大輔はあまり興味なさそうに応える。
「お前、女に興味ないの? ま、まさか、あっちの趣味か!」
「ばか! そんなわけないじゃん。こっから入らないでとか言われたからあんまり顔見れなかっただけ」
 実際、ここから入らないでって小学生かよって憤慨した大輔はとにかく横を見ないようにしていたのだ。
 それでもチラッと見えた横顔は確かに美しかった。めがねをかけているけれど、その下の目元は睫毛が驚くほど長く、豊かな量だった。
「腰まであるストレートロングの髪は神々しいまでにキラキラと輝いている。身長170センチ、バスト85、ウエスト60、ヒップ85(あくまでうわさの予測値)というモデルばりの8頭身。仕事の時はパソコンのブルーライトカットめがねをかけているが、それがまた良くお似合い。そしてそのめがねを取った顔はめまいがするくらい美しい! ってうわさだぜ?」ニヤニヤした顔で国重が言う。
「そんなに完璧な人だったら、どうせモデルの彼氏とか、青年実業家の男とかいそうじゃん」あまりにも高嶺の花すぎると、嬉しいとかいう気持ちもまったくおきないものなのだと大輔は思った。
「それがさ。会社の名だたる男たちが口説いてもまったくなびかないらしいんだよ。それは実は社長の愛人だとか大物政治家の妾だとか言われてる」さも深刻なことを言っているように国重が眉をひそめて言う。
「そんな眉唾もんのうわさ…みんな本気にしてるわけ?」
「飲み会にもまったくこないらしいぜ? 定時にあがって風のように帰って行くらしい。誰もどこに住んでるかも知らないって」
「ふぅ~ん」ジョッキに口をつけながら気のない返事を大輔がすると、
「お前、ちょっと探ってみろ。そのネタ知りたがってるお偉いさんがかなり会社にはいるらしいぜ。もしかしたら異動願い通るかもよ」
 同期の中でも適当さにかけては一、二を争うかっていう国重のこの言葉に、この時の大輔は食いついた。
「マジ?! そっかぁ…うわさの神小牧さんな…」その時、大輔は神小牧さんのうわさの真相を少し探ってみようかという気になっていた。

「おはようございます」
「おはよう」
 この1週間の神小牧さんを見ていると驚くほど彼女の行動は正確だ。
帰りも定時なら朝も正確な神小牧さんだった。パソコンが起動する時間を計算にいれているのか、始業チャイムとともに神小牧さんの指は超高速で動き出す。
時に電卓を叩く指は、パソコンのブラインドタッチよりもさらに早い。
電卓何段とかもっている。しかし、それもあくまでもうわさ。誰も神小牧さんに実際に確認したことはないという。
この1週間。定時に帰る神小牧さんを追おうとするが、そんな時にかぎって雑用を課長に頼まれたり、他の女子社員に飲みに誘われたりして追いかけられずにいる。
「ちょっと、それ見せて」
 悪戦苦闘していた大輔に神小牧さんが声をかけた。
「あ、はい。すみません。ここがどうしても…」
「あぁ、これはね」神小牧さんの適切かつ的確な説明と、冷たい口調だけれど心地よく耳に響く声が大輔の頭を活性化させた。
「ありがとうございます。助かりました」思いっきり頭をさげてお礼を言うと、神小牧さんが少しだけ笑った。この1週間一度も大輔は神小牧さんの笑顔を見たことがなかった。
 それは華が咲くという言葉がぴったりくる、それ以上の説明はいらないくらい可愛い笑顔だった。
「神小牧さん」
「何?」いつものつっけんどんな神小牧さんに戻っていた。
「笑うと可愛いんですね」大輔は正直に口にした。
「え!」
 怒ったように神小牧さんが声をだしたけれど、顔は耳たぶまで真っ赤になっていた。
「赤くなるとこも」大輔はまた一言付け加えた。
「黙ってて」神小牧さんは何事もなかったようにパソコンに向って業務を再開していた。でもまだ耳たぶは赤いままだ。
 そんな神小牧さんを横目で見ながら、大輔はにやりと笑った。

「お先に失礼します」
 今日も定時ぴったりに立ち上がる神小牧さんは、黒い腕抜きもメガネもすでにとっていて、すらっとした長い足をピンヒールから伸ばし、モデルのような足取りで帰っていく。
「あ! 俺も…」と大輔は慌ててデスクを片付けようとしたが、
「望月くん、ちょっとこれ」タイミング悪く、他の先輩社員から書類が回ってきた。
「はい…」今日も神小牧さんの後を尾行る計画は果たせなかった。

「お疲れ様でした。遅くまでつきあってもらってすみませんでした」どうしても数字が合わず、3時間の残業。
「お疲れ」経理課で小黒課長と大輔を除くと唯一の男性社員の沢辺さんがにっこり笑ってくれた。ひょろっとした今にも倒れそうなほど痩せている沢辺さんは、顔色も悪く、目がすごく細い。けれど、その細い目はいつも笑っているように見える。一緒にいるだけで安心できる人だ。
 なんとなくだが、ここの女性はみんなけっこうきつい感じだけれど、男性社員は優しい人たちだ。課長と沢辺さんしかいないから、絶対数からいくと一概には言えないのかもしれないが大輔はこの2人のことは尊敬できるなと思っていた。
 1週間でだいぶ仕事の内容はわかってきたとはいえ、まだまだわからないことだらけでやたらと時間がかかってしまう。まったく眼中になかった経理という仕事。たかが経理。されど経理なのだと大輔は実感していた。
 実はこの2人と同じで神小牧さんもすごい人だと大輔は一目置いていた。ただ謎だらけの人ではない。きっちり定時には帰る。それ以外のことはやらない。けれど、正確なのだ。他者に文句を言わせないだけのものが神小牧さんにはある。
 それが神小牧さんをうわさの神小牧さんにしている理由の一因なのかもと最近、大輔は思っていた。
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