うわさの神小牧さん
大輔。神小牧さんと遭遇する
自宅アパートの駅前のコンビニで今夜の夕食を買ってトボトボと自宅へ向おうとしていた大輔の眼の前を、驚く人が横切った。
「え?」
見覚えのある横顔。まさかこんなところいるわけがない。
すらっとした背中を無意識のうちに追っていた。
駅の改札の前で立ち止まったので、電柱の影に身を隠し、様子を伺う。隣の背の低い小太りの男性となにやら話しをしている。
「いつもすみません。また遊びに来てくださいね。翔も待ってるから」軽く手を振ったその相手が改札の入り口で振り向いた。
「あぁ!」大輔は思わず大声をだしてしまい、慌てて電柱の影に口をおさえて隠れた。
「なに?」
神小牧さんと課長の小黒課長が不思議そうにきょろきょろしていたけれど、
「電車、時間じゃないですか?」
「お、そうだな。翔、またな。バイバイ」課長が大きな体をかがめて手を振った先には、神小牧さんと手をつないだ小さな男の子がいた。
「バイバイ」「バイバーイ」
もう声などまったくでないくらい大輔は驚きで息ができないくらいだった。
大輔はそれ以上、神小牧さんを追いかけることはしなかった。
(まさか、課長が神小牧さんの相手だったなんて…しかも子供まで? いくらなんでも誰にも言えないぞこれは)
同じ駅に住んでいたことも驚きだった。小さな駅だから今まで一度も会ったことがないのが不思議なくらいだ。
あの人の良さそうな小黒課長が、まさかの不倫?! しかも相手は会社で一番の美女の神小牧さん。なんと子供まで?
神小牧さんのすごい秘密を知ってしまった。興奮するかと思ったけれど、なぜか大輔はモヤモヤしたものしか心に残らなかった。
「おはよう…ございます」昨夜は全然眠れなかった。
「おはよう」いつも通りの神小牧さんだ。
課長の席を見ると座っていなかった。予定表のボードを見ると、会議と書いてある。
(良かった…さすがに同時に2人見るのは、耐えられそうにない)そんなことを考えながら、大輔は席に座った。
もちろん、神小牧さんも課長も大輔が昨日見かけたことには気がついていないのだから神小牧さんがいつも通りなのは当たり前なのだが、大輔はどんな態度をとっていいかわからなかった。
「大丈夫?」
耳に心地よい神小牧さんの声が聞こえた。
けれど、どこから聞こえるのか大輔にはわからない。
いよいよ幻聴まで…と大輔が耳を両手でふさいでいると、
「ほら、ちゃんと聞く。具合悪いんじゃないの?」左手をつかまれ、耳から離された。その勢いで左側を向くと、美しい神小牧さんの瞳が大輔の眼の前にあった。
(昨日は笑顔だった。少しだけだけど、笑顔を俺に向けてくれた)
大輔の頭の中で、昨日の駅でのことが次に頭に浮かんだ。
(でも俺に向けられたほんのささやかな笑顔より、課長に向けられた笑顔は最高に可愛かった)
そう思ったら大輔はつい口にしていた。
「神小牧さんて…どこに住んでるんですか? 俺、実は落合で」
「え?!」昨日に続き二度目の神小牧さんが神小牧さんじゃなくなった瞬間だった。
「落合です…同じですよね? 駅」
「…そうだったかしら?」瞬間的に神小牧さんはいつもの神小牧さんを取り戻した。
うまくごまかされそうになった大輔はなおも食い下がろうと、神小牧さんのほうへ椅子を引いたとき、
「望月くん、ちょっとこれ」またいいタイミングでベテラン女性社員の柳沼さんが声をかけてきた。
「あ、はい」大輔は半分腰を浮かせた状態でさらに神小牧さんを見た。
神小牧さんは大輔の視線に気がつかないようにパソコンの画面に向って、すばやくキーを打っている。
「あの…」言いかけた時、
「望月くん!」柳沼さんが恐い顔でこっちを見ていた。大輔は半分浮かせていた腰をおこし、柳沼さんの席へ向った。チラッと斜め後ろを見ると、神小牧さんと目があった。
神小牧さんはマズいとでもいうようにすぐに俯いて指を動かし始めた。
(やっぱり間違いないんだ)大輔は確信したと同時にどこかがっかりしている自分に気がついて、慌てて頭をふった。
「望月くん!」
「あ、はい」柳沼さんの機嫌が思い切り悪くなったので、大輔は身体を小さくして柳沼さんの隣に座った。
「よぉ。どうだ、うわさの神小牧さんは?」
あれから一週間。どうしていいかわからず悶々とすごしていた大輔は、ついに耐え切れなくなって誰かに聞いてほしくて同期の国重を居酒屋に呼び出した。
会社の近くだと誰がいるかわからないので、国重の家の近所で飲むことにした。
「あぁ」国重に聞いてもらおうと思って呼び出したものの、こんな話を誰かに話をしてしまっていいものか今さらだが、大輔は悩んでいた。
「わざわざこんなとこまで来て飲もうだなんて。あれか? ビッグなネタか?」
すでに頬をかなり赤らめている国重の、この軽い口ぶりを聞いた途端、大輔はこいつに話をするのは危険なんじゃないかと思い始めていた。
「いや、そういうわけじゃ」口ごもる大輔に国重がビールをついだ。
「なんだよ、まさか会社辞めるとか言うなよ!」
「いや、それはない。沢辺さん、影薄いけどすっげぇ仕事できるし頼りになるんだ。課長も、神小牧さんも…その」
「なんだよ?」言いよどむ大輔を不審そうに国重がみる。
「課長は見た目どおり温和だけどさ。いざって時には俺らのミスを全部ひっかぶってくれるくらいの器の持ち主だと思う」
(そうだ。そんな課長が不倫だなんてありえない)
大輔がそう考えていると、
「お前の上司はいい上司なんだな」国重は羨ましそうに言った。
「神小牧さんもさ、見た目が綺麗だから特別扱いされてるとかってわけじゃないんだ。仕事、むちゃくちゃ早くってさ。電卓うつ指なんて早すぎて見えないくらいなんだよ。あそこまでいくと神業っていうか神の手だな。いつも無表情だけどさ。昨日、ちょっと笑ってくれてさ。それがすげぇ可愛いの。可愛いって思わずいっちまったら、耳まで真っ赤になっちゃってさ。うわさは本当はただのうわさでしかないんじゃ…ない…か、って」一気に話をしたあとで、昨日の駅前での場面がフラッシュバックのように眼の前にちらついた。
「ふぅ~ん。大輔も神小牧さんの魅力にノックダウンか?」古い言い方をする国重に顔をしかめて、大輔はビールを一気に飲み干した。
「そういうわけじゃないよ。だって神小牧さんには…」そこまで言いかけて、大輔はぐっと口をつぐんだ。
「何? やっぱりなんか掴んだんだろ? いえよ~~同期の仲だろ?」ネクタイを緩め、もはや新入社員の雰囲気もない国重を見て(ぜったいお前にだけは言わない)と大輔は心に決めた。
最後は国重の愚痴大会になり、ようやく開放されて落合の駅前にたどりついた大輔は、なんとなく飲み足りなくて駅前のコンビニに寄ってビールを一本買って帰ることにした。
「いらっしゃいませ」
若い学生アルバイトの男が愛想よく言う。大学生になりたてだろうか? まだコンビニの制服よりも学生服のほうが似合いそうだと大輔は思った。
(自分もついこの間までは、あんな風だったのにな)まだ入社してから2ヶ月。ちゃんと職場に配属されてから2週間ほどしかたっていない。それなのに、なんだか遠い昔の自分を見ているようだと大輔は感じていた。
奥の冷蔵庫の前に向って歩いていくと、小さな男の子がおでこに冷えピタを貼って赤い顔をして歩いてきた。
「翔、ちょっと待ってて。ポカリスエット飲めるよね。プリンも食べる?」
その声を聞いて大輔は動きが止まった。
荷物の棚の影から、腰を屈めて出てきた神小牧さんが大輔にぶつかった。
「ごめんなさい」はっと顔をあげて謝る神小牧さんの目と大輔の目がしっかり合った。
(神小牧さん、可愛い)のん気にも大輔はその瞬間そんなことを思った。
「あ! 望月くん」その可愛い顔が困ったようにしかめられた。
(そんな顔も可愛い)国重と一緒に飲んだ悪い酒がまだしっかり身体に残っているのか、大輔の頭にはそんなことしか浮かばなかった。
「ママ」
子供の声で大輔は現実に引き戻された。
「翔、こっちおいで」神小牧さんは冷えピタをおでこに貼った男の子を抱き上げた。
子供を抱っこした腕に重そうな買い物かごを持っているのが見えたので、大輔はとっさにそのカゴに手をかけた。
「持ちます」真剣な表情の大輔に、神小牧さんは観念したようにゆっくりカゴから手を離した。
「ありがとうございました」
若い店員に見送られ、大輔たちは店をでた。神小牧さんと神小牧さんの背中には翔という神小牧さんの子供がおぶわれていた。
ポカリスエット等が入ったコンビニの袋は大輔が持ち、神小牧さんの後ろを神妙について歩いた。
「悪いわね。翔が急に熱だしちゃって、夜間救急病院に行った帰りなの」いつもの神小牧さんだった。毅然として前をまっすぐ向いて話をはじめた。
「たぶん望月くんが私に聞きたいって思っていることを話すわね。この子は翔。三歳。私の子よ」見ていればわかるけれど、それでもちゃんと話すところは神小牧さんらしいなと大輔は思った。
「でも、結婚はしていない。ちなみに離婚も。未婚の母ね、簡単に言うと」
それはやっぱり小黒課長の子だから? と声に出しそうになったけれどごくりと大輔はつばを飲み込んだ。
「彼…翔の父親は死んだの。山の事故で」
「え?! じゃ、課長は…」思わず課長のことを言ってしまい大輔は慌てて口をつぐんだ。
「やっぱり昨日、見られてたんだ」少し振り向いて笑った顔はいつもの神小牧さんではなく、柔らかい表情だった。
「小黒課長は彼のお父さんなの。彼とは学生の時に付き合いだして翔を妊娠したってわかった。2人とも学生だったけど結婚するつもりだった。山から戻ったらお父さんに挨拶に行くって約束してたの」まるでそこに山が見えるように、神小牧さんは住宅街の隙間から見える、街の明かりで薄ぼんやりとしている夜空を見た。
「初めて課長と会ったのが、彼の遺体の確認だった」
「すみません。俺、てっきり課長とその、神小牧さんが」大輔は、自分の下世話な考えに恥ずかしさで消えてしまいたい気持ちになった。
「いいわよ。私だってだいたい会社でなんて言われてるか知ってるもの。社長の愛人とか」
「すみません!」大輔は思い切り頭を下げた。
「望月くんが謝らなくたっていいわよ」声をだして神小牧さんが笑うところをはじめてみた。
「よいしょ」らしくない掛け声で、背中におぶっていた翔をおぶいなおした。
「俺、代わりましょうか?」
「え? いいわよ、悪いわ」
「これでも体育会系ですから。これ、お願いします」大輔はコンビニの袋を渡して、翔を背中におぶった。眠ってしまった子供の重さに一瞬、驚いた。
「ありがとう」
神小牧さんの心地よい声が耳に響いた。
まっすぐ前を見て歩いた。
「私は別にかまわないんだけど、課長との関係をみんなに知られてしまうと迷惑かけちゃいそうだから」
「誰にも言いませんから」大輔が前を見たまま言うと、もう一度心地よい声が聞こえた。
「ありがとう」
「え?」
見覚えのある横顔。まさかこんなところいるわけがない。
すらっとした背中を無意識のうちに追っていた。
駅の改札の前で立ち止まったので、電柱の影に身を隠し、様子を伺う。隣の背の低い小太りの男性となにやら話しをしている。
「いつもすみません。また遊びに来てくださいね。翔も待ってるから」軽く手を振ったその相手が改札の入り口で振り向いた。
「あぁ!」大輔は思わず大声をだしてしまい、慌てて電柱の影に口をおさえて隠れた。
「なに?」
神小牧さんと課長の小黒課長が不思議そうにきょろきょろしていたけれど、
「電車、時間じゃないですか?」
「お、そうだな。翔、またな。バイバイ」課長が大きな体をかがめて手を振った先には、神小牧さんと手をつないだ小さな男の子がいた。
「バイバイ」「バイバーイ」
もう声などまったくでないくらい大輔は驚きで息ができないくらいだった。
大輔はそれ以上、神小牧さんを追いかけることはしなかった。
(まさか、課長が神小牧さんの相手だったなんて…しかも子供まで? いくらなんでも誰にも言えないぞこれは)
同じ駅に住んでいたことも驚きだった。小さな駅だから今まで一度も会ったことがないのが不思議なくらいだ。
あの人の良さそうな小黒課長が、まさかの不倫?! しかも相手は会社で一番の美女の神小牧さん。なんと子供まで?
神小牧さんのすごい秘密を知ってしまった。興奮するかと思ったけれど、なぜか大輔はモヤモヤしたものしか心に残らなかった。
「おはよう…ございます」昨夜は全然眠れなかった。
「おはよう」いつも通りの神小牧さんだ。
課長の席を見ると座っていなかった。予定表のボードを見ると、会議と書いてある。
(良かった…さすがに同時に2人見るのは、耐えられそうにない)そんなことを考えながら、大輔は席に座った。
もちろん、神小牧さんも課長も大輔が昨日見かけたことには気がついていないのだから神小牧さんがいつも通りなのは当たり前なのだが、大輔はどんな態度をとっていいかわからなかった。
「大丈夫?」
耳に心地よい神小牧さんの声が聞こえた。
けれど、どこから聞こえるのか大輔にはわからない。
いよいよ幻聴まで…と大輔が耳を両手でふさいでいると、
「ほら、ちゃんと聞く。具合悪いんじゃないの?」左手をつかまれ、耳から離された。その勢いで左側を向くと、美しい神小牧さんの瞳が大輔の眼の前にあった。
(昨日は笑顔だった。少しだけだけど、笑顔を俺に向けてくれた)
大輔の頭の中で、昨日の駅でのことが次に頭に浮かんだ。
(でも俺に向けられたほんのささやかな笑顔より、課長に向けられた笑顔は最高に可愛かった)
そう思ったら大輔はつい口にしていた。
「神小牧さんて…どこに住んでるんですか? 俺、実は落合で」
「え?!」昨日に続き二度目の神小牧さんが神小牧さんじゃなくなった瞬間だった。
「落合です…同じですよね? 駅」
「…そうだったかしら?」瞬間的に神小牧さんはいつもの神小牧さんを取り戻した。
うまくごまかされそうになった大輔はなおも食い下がろうと、神小牧さんのほうへ椅子を引いたとき、
「望月くん、ちょっとこれ」またいいタイミングでベテラン女性社員の柳沼さんが声をかけてきた。
「あ、はい」大輔は半分腰を浮かせた状態でさらに神小牧さんを見た。
神小牧さんは大輔の視線に気がつかないようにパソコンの画面に向って、すばやくキーを打っている。
「あの…」言いかけた時、
「望月くん!」柳沼さんが恐い顔でこっちを見ていた。大輔は半分浮かせていた腰をおこし、柳沼さんの席へ向った。チラッと斜め後ろを見ると、神小牧さんと目があった。
神小牧さんはマズいとでもいうようにすぐに俯いて指を動かし始めた。
(やっぱり間違いないんだ)大輔は確信したと同時にどこかがっかりしている自分に気がついて、慌てて頭をふった。
「望月くん!」
「あ、はい」柳沼さんの機嫌が思い切り悪くなったので、大輔は身体を小さくして柳沼さんの隣に座った。
「よぉ。どうだ、うわさの神小牧さんは?」
あれから一週間。どうしていいかわからず悶々とすごしていた大輔は、ついに耐え切れなくなって誰かに聞いてほしくて同期の国重を居酒屋に呼び出した。
会社の近くだと誰がいるかわからないので、国重の家の近所で飲むことにした。
「あぁ」国重に聞いてもらおうと思って呼び出したものの、こんな話を誰かに話をしてしまっていいものか今さらだが、大輔は悩んでいた。
「わざわざこんなとこまで来て飲もうだなんて。あれか? ビッグなネタか?」
すでに頬をかなり赤らめている国重の、この軽い口ぶりを聞いた途端、大輔はこいつに話をするのは危険なんじゃないかと思い始めていた。
「いや、そういうわけじゃ」口ごもる大輔に国重がビールをついだ。
「なんだよ、まさか会社辞めるとか言うなよ!」
「いや、それはない。沢辺さん、影薄いけどすっげぇ仕事できるし頼りになるんだ。課長も、神小牧さんも…その」
「なんだよ?」言いよどむ大輔を不審そうに国重がみる。
「課長は見た目どおり温和だけどさ。いざって時には俺らのミスを全部ひっかぶってくれるくらいの器の持ち主だと思う」
(そうだ。そんな課長が不倫だなんてありえない)
大輔がそう考えていると、
「お前の上司はいい上司なんだな」国重は羨ましそうに言った。
「神小牧さんもさ、見た目が綺麗だから特別扱いされてるとかってわけじゃないんだ。仕事、むちゃくちゃ早くってさ。電卓うつ指なんて早すぎて見えないくらいなんだよ。あそこまでいくと神業っていうか神の手だな。いつも無表情だけどさ。昨日、ちょっと笑ってくれてさ。それがすげぇ可愛いの。可愛いって思わずいっちまったら、耳まで真っ赤になっちゃってさ。うわさは本当はただのうわさでしかないんじゃ…ない…か、って」一気に話をしたあとで、昨日の駅前での場面がフラッシュバックのように眼の前にちらついた。
「ふぅ~ん。大輔も神小牧さんの魅力にノックダウンか?」古い言い方をする国重に顔をしかめて、大輔はビールを一気に飲み干した。
「そういうわけじゃないよ。だって神小牧さんには…」そこまで言いかけて、大輔はぐっと口をつぐんだ。
「何? やっぱりなんか掴んだんだろ? いえよ~~同期の仲だろ?」ネクタイを緩め、もはや新入社員の雰囲気もない国重を見て(ぜったいお前にだけは言わない)と大輔は心に決めた。
最後は国重の愚痴大会になり、ようやく開放されて落合の駅前にたどりついた大輔は、なんとなく飲み足りなくて駅前のコンビニに寄ってビールを一本買って帰ることにした。
「いらっしゃいませ」
若い学生アルバイトの男が愛想よく言う。大学生になりたてだろうか? まだコンビニの制服よりも学生服のほうが似合いそうだと大輔は思った。
(自分もついこの間までは、あんな風だったのにな)まだ入社してから2ヶ月。ちゃんと職場に配属されてから2週間ほどしかたっていない。それなのに、なんだか遠い昔の自分を見ているようだと大輔は感じていた。
奥の冷蔵庫の前に向って歩いていくと、小さな男の子がおでこに冷えピタを貼って赤い顔をして歩いてきた。
「翔、ちょっと待ってて。ポカリスエット飲めるよね。プリンも食べる?」
その声を聞いて大輔は動きが止まった。
荷物の棚の影から、腰を屈めて出てきた神小牧さんが大輔にぶつかった。
「ごめんなさい」はっと顔をあげて謝る神小牧さんの目と大輔の目がしっかり合った。
(神小牧さん、可愛い)のん気にも大輔はその瞬間そんなことを思った。
「あ! 望月くん」その可愛い顔が困ったようにしかめられた。
(そんな顔も可愛い)国重と一緒に飲んだ悪い酒がまだしっかり身体に残っているのか、大輔の頭にはそんなことしか浮かばなかった。
「ママ」
子供の声で大輔は現実に引き戻された。
「翔、こっちおいで」神小牧さんは冷えピタをおでこに貼った男の子を抱き上げた。
子供を抱っこした腕に重そうな買い物かごを持っているのが見えたので、大輔はとっさにそのカゴに手をかけた。
「持ちます」真剣な表情の大輔に、神小牧さんは観念したようにゆっくりカゴから手を離した。
「ありがとうございました」
若い店員に見送られ、大輔たちは店をでた。神小牧さんと神小牧さんの背中には翔という神小牧さんの子供がおぶわれていた。
ポカリスエット等が入ったコンビニの袋は大輔が持ち、神小牧さんの後ろを神妙について歩いた。
「悪いわね。翔が急に熱だしちゃって、夜間救急病院に行った帰りなの」いつもの神小牧さんだった。毅然として前をまっすぐ向いて話をはじめた。
「たぶん望月くんが私に聞きたいって思っていることを話すわね。この子は翔。三歳。私の子よ」見ていればわかるけれど、それでもちゃんと話すところは神小牧さんらしいなと大輔は思った。
「でも、結婚はしていない。ちなみに離婚も。未婚の母ね、簡単に言うと」
それはやっぱり小黒課長の子だから? と声に出しそうになったけれどごくりと大輔はつばを飲み込んだ。
「彼…翔の父親は死んだの。山の事故で」
「え?! じゃ、課長は…」思わず課長のことを言ってしまい大輔は慌てて口をつぐんだ。
「やっぱり昨日、見られてたんだ」少し振り向いて笑った顔はいつもの神小牧さんではなく、柔らかい表情だった。
「小黒課長は彼のお父さんなの。彼とは学生の時に付き合いだして翔を妊娠したってわかった。2人とも学生だったけど結婚するつもりだった。山から戻ったらお父さんに挨拶に行くって約束してたの」まるでそこに山が見えるように、神小牧さんは住宅街の隙間から見える、街の明かりで薄ぼんやりとしている夜空を見た。
「初めて課長と会ったのが、彼の遺体の確認だった」
「すみません。俺、てっきり課長とその、神小牧さんが」大輔は、自分の下世話な考えに恥ずかしさで消えてしまいたい気持ちになった。
「いいわよ。私だってだいたい会社でなんて言われてるか知ってるもの。社長の愛人とか」
「すみません!」大輔は思い切り頭を下げた。
「望月くんが謝らなくたっていいわよ」声をだして神小牧さんが笑うところをはじめてみた。
「よいしょ」らしくない掛け声で、背中におぶっていた翔をおぶいなおした。
「俺、代わりましょうか?」
「え? いいわよ、悪いわ」
「これでも体育会系ですから。これ、お願いします」大輔はコンビニの袋を渡して、翔を背中におぶった。眠ってしまった子供の重さに一瞬、驚いた。
「ありがとう」
神小牧さんの心地よい声が耳に響いた。
まっすぐ前を見て歩いた。
「私は別にかまわないんだけど、課長との関係をみんなに知られてしまうと迷惑かけちゃいそうだから」
「誰にも言いませんから」大輔が前を見たまま言うと、もう一度心地よい声が聞こえた。
「ありがとう」