うわさの神小牧さん
大輔。神小牧さんと秘密を共有する
「おはようございます!」大輔が始業ベルが鳴っている最中に駆け込む。
「望月、遅いよ」柳沼さんの厳しい声が飛ぶ。
「すみません、ちょっと寝坊して」
 大輔はちらっと横を見た。神小牧さんはいつものように彫刻側でパソコンに向って仕事を始めていた。
 昨日の夜のことが頭から離れなくてなかなか寝付けなかった。
 神小牧さんの横顔は昨日の会社の時とまったくかわっていなかった。
 大輔は一瞬、昨日の夜の出来事は夢だったのかと肩を落として椅子に座った。
「おはよう」神小牧さんの心地よい声が小さく大輔の耳に届いた。
 大輔はその声に条件反射のように、くるっと首を神小牧さんのほうへ回す。
 画面を見つめる神小牧さんはやっぱりいつもの横顔だった。
(空耳?)そう思って視線を戻そうとした一瞬、ちらっと神小牧さんが横目で大輔を見た。
 神小牧さんと目があった。そしてその目が笑った。
(夢じゃない!)勢いあまってデスクに足をぶつけた。
「いって~」膝頭をさすっていると、柳沼さんが呆れたような目で大輔を見つめ、
「望月、どうしちゃったんだか…君が悪いくらい張り切ってるわね」
 柳沼さんの毒舌に、周りの女子が全員、失笑していた。
「すみません!」大輔は、膝の痛みを堪えながらも笑みを堪えきれずに俯いてこっそり微笑んでいた。

 土曜。大輔は一日中、たまった洗濯物を片付けたり、部屋の掃除で疲れ、早くに寝てしまったので日曜の朝、いつもよりも早く目が覚めた。
 冷蔵庫をあけてみると、中には飲みかけの賞味期限切れの牛乳といつ買ったかわあらない卵が一個。あとは発泡酒とミネラルウォーターが一本ずつしか入っていなかった。
仕様がないので買出しに出かけることにした。
 日曜のまだ早い時間だったけれど駅前はそこそこ混んでいた。
まだスーパーが開く時間ではなかったので、駅前の古い昔ながらの喫茶店のモーニングで朝食をすませ、それからスーパーに行くつもりで出かけてきた。
だが、大輔は神小牧さんと偶然出会ったコンビニの前を通りかかった時、つい店の中に足を踏み入れてしまった。
 入ってきょろきょろと店の中を見回す。
(いるわけないよな、休日のコンビニなんて)そう思って出ようとしたけれど、なんだかすぐ出るのも怪しいよなと思い、雑誌コーナーの前で適当な雑誌を手にとった。
 ぱらぱらとめくっていると、ガラスの向こう側を見覚えのある横顔が通り過ぎた。
「あ!」大輔は急いで雑誌を元に戻し、店の自動ドアが開くのを待ちきれずに割り込むように外にでた。
「神小牧さん!」
 振り返った時、神小牧さんの髪が陽の光でキラキラと輝いた。
「あぁ、望月くん」
 その声は神小牧さんの素敵な声…ではなく、小黒課長の声だった。
「課長!」慌てて頭をさげる。
「驚かせたかな。翔が…、翔と神小牧くんがこの前はお世話になったそうだね。ありがとう」
 小黒課長が汗を拭きながら頭をさげた。
「いえ、別に俺は何もしてないです」大輔は思いっきり頭をさげた。
 そんな二人を見て、神小牧さんがくすっと笑った。
「二人とも、恥ずかしいからやめて。通行の妨げだし」
 振り返ると、脇を通れなくて困っている自転車の男子高校生がいた。
 急いで小黒課長と大輔が道路の脇によけて、なんとなく目が合った。
 なんだか照れくさくなって大輔は大声で
「今日はどうしたんですか?」
「これからお父さんと、あ、課長がね、水族館に連れて行ってくれるって」神小牧さんが翔に「ねっ」っていう風に目を合わせて笑った。
「よかったら、望月君も一緒にどうだい?」
「え?!」大輔と神小牧さんが同時に驚いて声をだした。
「いや、なんにも用意してきてないですし、お邪魔なんじゃ」
 大輔は内心嬉しかったのだが、一応、遠慮してみた。
「家、近いんだろ? 待ってるから用意してきなさい。おじいちゃんだけよりおにいちゃんがいたほうが翔も楽しいだろう?」
 翔が元気良くうなづく。
「え、でも」神小牧さんの顔をちらっと見ると、戸惑っているような顔をしていた。
けれど、その時、翔が大輔の手を握ったので
「そうね。お父さんも腰をこの前やっちゃったっていってたし、迷惑じゃなかったら。助かるわ、望月くん」
「りょ、了解です! 翔、待ってな」
 大輔は走り出した。ドキドキが走っているせいか、それとも違う意味なのかはこの際どうでもいい気がしていた。
「ごめんね。翔、重いでしょ?」
 水族館の帰り、眠ってしまった翔をおんぶして、この前の夜と同じように帰り道を神小牧さんと並んで大輔は歩いていた。
「いや、全然、大丈夫です」
「翔、とっても楽しそうだった。ありがとうね」大輔の背中の翔の頭をそっとなでながら神小牧さんは言った。
「父親ってこんな風なのかなってちょっと思っちゃったな。お父さん…課長もよく面倒みてくれるけど、やっぱり翔にとったら父親っていうよりおじいちゃんだもんね」
 大輔がどう応えていいか黙っていると
「あ! ごめん。そんな意味じゃなくて…あの。ほんと、ごめん」
 暗がりだったからよく見えなかったけれど、一瞬だけ神小牧さんの真っ赤な耳がすれ違った車のヘッドライトで見えた。
「俺でよかったら、その…たまに翔と遊べたらいいかなって思います」
 その後、ずっと二人の歩く足音だけが耳に響いていた。
               ※
「お先に」定時のチャイムとともに、今日も神小牧さんはさっそうと立ち上がって帰っていった。
 内心、(一緒に帰ろうかな)なんて思っていた大輔は、自分の仕事の速度では百万年早いと悟り、気合をいれなおしてパソコンに向った。
「おい、大輔!」顔を上げると、同期の国重が入り口のところから手招きしているのが見えた。
「おぅ」返事をし、立ち上がる。
「どうした? 珍しいな」用事があればメールですむし、わざわざ足を運んでくるなんてなかなかない。
「いや、通りかかったついで。今日さ、お前のとこ行ってもいいか?」
「え? いいけど、どうした。なんかあったのか?」
「お前んち、会社に近いからさ。たまにはゆっくりいいかなって思っただけだよ」
 なんとなく目が泳ぐっていうか、歯切れの悪い国重の口ぶりが大輔は少し気になった。
「仕事、お前もう終わり? 俺、もう少しかかるからさ。良かったら酒とかつまみとか買って先に俺の部屋いってろ」デスクに戻り、バッグから部屋の鍵をとって、国重に放り投げた。
「お、サンキュな。じゃ、先行ってる」手を軽くあげて帰っていく国重の背中が、大輔にはいつもの国重じゃなく小さく見えた。
「望月」
 振り向くと、柳沼さんが帰り支度をして後ろに立っていた。
「あ、すみません。邪魔でしたよね。おつかれさまっす」
「彼、同期?」国重の去ったほうを、柳沼さんがいつもよりさらに凄みのある顔でにらんで言った。
「あ、はい。国重っていって…」
「営業でしょ? 彼、なんだか大変みたいよ。得意先で大失敗したらしい」
「え!」
「望月、気をつけなさい。ぼんやりしてるとやっかいごとに巻き込まれちゃうわよ」
「ハァ…」不吉なこと。だけど柳沼さんは軽々しくそんな言葉を口にする人ではない。
 大輔の胸の中に、モヤモヤとした黒い塊が出来た気がした。

「遅くなった、悪いな」
 駅前のコンビニで買ったビール6缶と乾き物が入ったビニール袋を掲げながら部屋に入ると、国重は大輔の部屋にある、部屋の大きさにまったくあっていない40インチの液晶テレビの前に座っていた。
「おぉ、こっちこそ急に悪かったな」
 テレビでナイター中継をしていた。
「あれ? お前、野球に興味ないっていってなかったか?」
「あ、あぁそうだけど、たまにはな」
「珍しいな~で、勝ってる? ジャイアンツ」
「いや、どうだろう…」
 国重の様子は明らかにおかしかった。興味のないナイターを見ているといってみたり、見ているといったのに、内容はまったく頭に入っていないようだった。
「そっか。ま、いいや。ビール、まだ飲むだろ?」
「あ、あぁそうだな…いや…やっぱ俺、ちょっと用事思い出したから帰るわ」
 国重はいきなり立ち上がって玄関に向おうとした。
「え、おい、なんだよ。どうしたんだよ」
 国重の様子がなんだかおかしくて大輔は国重の肩を思わず強く掴んで引きとめた。
「なんか様子がおかしいぞ? なんかあったのか?」 だったら…」
「なんにも…悪いな、大輔。また会社で」
 国重は大輔の手を振りほどくようにドアを開けてでていった。
 出て行く間際の表情には、期待、不安、懐疑、後悔…いろんな想いが複雑に入り混じって見えた。
               ※
「お、はよう…ございます…」
 大輔がいつものように元気良く挨拶をして入ろうとすると、なんだか経理部の雰囲気がざわついていた。
 みんな、席ではなくあちこちで何人かずつ集まってヒソヒソと話をしていた。
 柳沼さんが大輔に気がついて手招きした。
「どうしたんですか?」思わず囁き声で大輔は聞いた。
「それが、大変なのよ。課長と神小牧が…その、あれ」いつもは歯に衣着せぬ物言いの柳沼さんが珍しく言いよどんだ。
「え? 神小牧さんがどうしたんですか?」
「ちょっと声が大きい」
「あ、すみません。それでどうしたんですか?」焦る大輔をなだめるように柳沼さんは部屋の端のほうへ、誘導した。
「セクハラりんりんダイヤルって知ってるでしょ?」
 大輔の会社には社内のセクシャルハラスメント、モラルハラスメントに対する対処として、相談窓口を設置していた。それが、セクハラりんりんダイヤルだ。
「えぇ、一応は」
「そこに匿名で通報があったらしいのよ」柳沼さんが深刻そうに眉間にしわを寄せる。
「どんな?」
「神小牧さんと課長が不倫関係にあるって」
「え! それ、ちがっ…」大輔は違いますといいたかったけれど、それを自分が言ってしまっていいものか迷って言葉を急いで飲み込んだ。
 柳沼さんはそんな大輔の様子がおかしいことに気がついたようだった。けれど、その場は敢えて何も聞かず、話を続けた。
「本来なら、セクハラりんりんは被害者からのセクハラやパワハラの通報で事実関係を調べて対処するのが目的だから、そういう個人的な不倫だとか浮気だとかはとりあげないんだけどね。なにせ、相手が神小牧じゃね。しかも子供いるとかいうし」
(翔のことまで)大輔は唇を噛んだ。
「でもそんな匿名の言葉、信憑性なんてないじゃないですか!」むきになって大輔が言うと
「それが、社内のネットワークで写真が流れたのよ」
「写真? それって見られますか?」どうしても確認したかった。
「もう、削除されちゃってるけど、こっそり画面を写真に撮っておいたのがあるわよ。画質悪いけど」スマホの画面を両手で覆うようにそっと柳沼が大輔に見せた。
 確かに画面の中の写真を撮ったので、上のほうに光が入り込んでいて見えずらいが、そこには、翔を真ん中にして手をつなぐ課長と神小牧さんが映っていた。
(これ、落合の商店街だ)商店街の脇の路地から撮ったようなアングルだった。
 会社の全員の住所を知っているわけではないし、落合に他の誰かが住んでいたっておかしくはないけれど、最近、大輔が偶然に神小牧さんと出会うまでは会社でこんな噂がたったことはない。ということは、運が良かったというよりは誰も落合付近にはいないと考えたほうがいい。それが、たまたまここに来て、たまたま神小牧さんを見かけたのか。
 大輔はなんとなく嫌な予感がした。スマホの画像をじっと見つめる。写る三人の向こう側に、店のガラス扉が写っていた。そこにぼんやりとだが、人影が写っている。写真を撮った奴だ。
「それで、神小牧さんと課長は?」この場に二人がいない。
「一応、話を聞かせてほしいってことで今、二人とも行ってるの」
 会社としても放ってはおけないということか。
「柳沼さん、この写真。俺に送ってもらっていいですか」真剣なまなざしで言う大輔に柳沼さんは、何かを察しているように言った。

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