うわさの神小牧さん
大輔。真相にせまる
柳沼さんの言葉でみんな仕事に戻った。けれど、大輔はパソコンのキーボードに手をおいたまま、まったく動けなかった。頭の中は、神小牧さんと小黒課長のあることないことを告発した匿名の人間のことでいっぱいだった。
 一体、誰が? まさか? 
 大輔は頭に浮かぶ人物の名前を必死に否定していた。
「課長!」みんなの声がして、入り口を見ると、小黒課長がいつものように静かな笑顔で立っていた。後ろには小黒課長よりも長身の神小牧さんの目から上が見えている。
「すまなかったね、お騒がせして」課長はいつもとまったく変わらない口調で、腰を90度に曲げて頭をさげたので、神小牧さんの姿がはっきり現れた。
 小黒課長とはまったく正反対の表情。いつものように美しいく、顔色ひとつ変えない涼しい表情ではなく、眉間に貸すかに皺を寄せていた。口元はしっかりと引き結ばれている。怒っているようにも、悲しんでいるようにも、申し訳なさそうにも、いく通りもの表情に見えた。
「状況を少し説明させてもらいたい」小黒課長が言うと、みんな自然と立ち上がり二人の周りを囲んだ。
「今回の匿名の通報の内容だが、もちろん私と神小牧くんの間に、そういった関係はありません」
「そんなのみんなわかってます」柳沼さんが言うと、みんなの表情が少し和らいだ。
「ありがとう…けれど、ひとつ隠していたこともあります」
 小黒課長のこの言葉で、またみんなが一気に緊張するのを感じた。
「実は、神小牧くんと私の息子…すでに亡くなってしまっていないのですが、その息子と神小牧くんは婚約をしていました。けれど、息子が事故で亡くなってしまった。でも、そのとき、神小牧くんのお腹の中には息子との子供が宿っていて、それが写真に写っていた子供です」
 一瞬、空気がざわついた。
「戸籍の上では、私と神小牧くんは赤の他人です。けれど、心情的にも立場的にも神小牧くんは娘と違わない存在です。採用時点で会社にはきちんと報告はさせていただいていたし、そのことで彼女を優遇したようなつもりは決してありません。けれどそれを、みなさんに隠していた。このことは謝罪しなければならない。申し訳なかった」
「小黒長と一緒に神小牧さんも深々と頭をさげた。
 小さな声でこそこそを話し声が聞こえた。
「だから、神小牧さんて残業なかったの?」
「そういうこと? でも課長は優遇してないって」
「でも、普通に考えたらおかしいよね?」
 大輔の耳に届いているくらいだから、二人の耳にもきっと聞こえている。いてもたってもいられなくなって大輔が声をだそうとした時、
「神小牧さんはキチンと仕事されてます。残業がないのは彼女の仕事が速いからですよ」
 その声は普段は圧倒的な女子の勢いの影に隠れて、まったく存在感の薄い沢辺さんだった。
 それにつられて大輔も声をだした。
「そ、そうです! 神小牧さんはけして他の人たちに仕事で迷惑をかけたことなんてなかったはずです」うっかり声が大きくなってしまって、柳沼さんにちらっと睨まれたが
「そうね。神小牧さんを課長が優遇していたとは私も思いません」と柳沼さんが言ったので、こそこそ話をしていた数名も、恥ずかしそうに下を俯いて黙ってしまった。
「ありがとう、沢辺くん、望月くん、柳沼さん」小黒課長が微笑んだ。
「話を聞かれただけで、別段、会社から何か言われたわけではありません。今まで通り…もしかしたら今まで通りとはいきにくいかもしれませんが、よろしくお願いいたします」
 課長が話を締めくくって席に戻ろうとしたとき
「私からも」神小牧さんが初めて口を開いた。
「私からも一言いいでしょうか?」小黒課長は驚いた顔をしたが、すぐにうなづいた。
「そうだね。君も当事者なのだから」
「ありがとうございます。みなさんには不愉快な想いをさせてしまい、申し訳ありませんでした。課長と私の関係は説明があったとおりです。隠していて申し訳ございませんでした」一度、お辞儀をしたあと、まっすぐ背筋を伸ばした。
「課長が私のために仕事上で優遇してくれたというような、そのような不平等なことは一度もありません。課長は悪くないんです。責められるべきは私です」
 口を真一文字に結んだ神小牧さんが隣の席に座ったタイミングで大輔は声をかけた。
「神小牧さん、あの…」
 神小牧さんは何も言わなかった。
「大丈夫ですか?」さらに大輔は声をかけた。それでも返事がない。
「神小牧さん?」
「ごめん。望月くんと今は話たくないの」
 そう言う神小牧さんの手が固く握り締められ、震えていることに気がついた大輔は、
 きっと自分があの写真を撮ったんじゃないかと思われていると気がついた。
「かっ…」神小牧さん、違いますと大輔は言おうとしたけれど、頑なな神小牧さんの態度に、でかかった言葉を飲み込んで大輔は、ただパソコンの画面を見続けていた。

「誰かお探しですか?」
 営業部門のフロアの入り口で、大輔が中を覗き込んでいると外回りから帰ってきたと思われる髪をきれいに束ねて重そうなバッグを手に提げた女性が声をかけてくれた。
「あ、あの国重を」
「あぁ、国重くんね。ちょっと待っててもらえますか? ただいま帰りました! あ、千里、国重くんは?」
 千里と言われた女性が立ち上がってこっちにきてくれた。
「国重くんに用事だって。えっと、どこの部署の名前は…」
「経理部の望月です」慌てて大輔は名前を名乗った。
「それが、国重くん今日はお休みしてるのよ。っていうか今まで連絡なくて」千里という女性が申し訳なさそうに言う。
「え? 無断でですか」
「そうなの。連絡は時間見て何度かしてみてるんだけど留守電になるばっかりで…」
 大輔はあごに手を置いて思案していると
「なに? 国重に用事?」大輔たちの会話が聞こえていたのか、一人の男性が近寄ってきた。
「俺はあいつの教育係の尾崎。俺の名前聞いたことあるだろ? あいつ、無断欠勤してるんだ。まったく今年の新人はどうかしてるよ。で、何の用事?」
 歳は大輔とたいして変わらないように見えるのに、服装はいかにも高そうなスーツに腕には高級腕時計がチラッと見えた。
「いえ、同期なんでたまには飯でもって思って」大輔はとっさに嘘をついた。
「国重の同期なんだ。大変だよね、あいつ使えないだろ?」
 なんだこいつー
 大輔は怒りをおさえて千里と声をかけてくれた女性のほうを向いて
「お世話さまでした。俺も連絡とってみます」頭をさげて、さっさと廊下にでた。
「なんだあいつ…さすが国重の同期だな~」尾崎のわざと聞こえるように言う声が耳に届いた。
 国重…まさか本当にお前が?
 不安な想いを抱えて経理部に戻ろうとしたとき、
「あの!」
さっき国重が来ていないことを教えてくれた千里が後ろに立っていた。
「はい?」なぜ呼び止められたのかわからずに困惑していると、
「ちょっと…」廊下の端のほうに連れて行かれた。
「さっきの人、尾崎さんの事なんだけど…」
言いかけたけれど、千里はまだ少し迷っているようだった。
「国重のことが関係あるんですか? だったら話してもらってもいいですか?」大輔が言うと、意を決したように千里は言った。
「尾崎さん、教育係とか偉そうにいってるけどね。国重くん、尾崎さんにけっこう嫌がらせみたいなことされてたのよ。経理部っていうと神小牧さんのところよね? あの匿名の連絡だって国重がやったんじゃないかって…」
「まさか! そんなことあるはずない」さっきの尾崎の態度も思い出して大輔は腹が立って大声になった。千里は自分が怒鳴られたように身体を小さくした。
「あ…ごめんなさい、あなたに怒ったわけじゃないて」
「だから、尾崎さんの言うことはきにしないでください。それだけいいたくて」
 千里は小さく頭を下げて小走りに戻っていった。
 国重がまさかそんな目にあっていたなんて
 国重のことが気になった。そしてさっきの神小牧さんの態度がそれ以上に気になって
大輔は廊下の端にある窓から、夕暮れのビル街をしばらく見下ろしていた。

 大輔はいつもより重い足取りで落合の駅に降り立った。
 何にも考えずに気がついたらいつものコンビニに入っていた。
「いらっしゃいませ」初々しかったあの店員も、だいぶ慣れてきたようで笑顔も挨拶もしぜんな感じで、大輔は少し嬉しくなった。
「悩んでたって解決しない、か」
 大輔はカゴをとって、ビールや弁当、お菓子につまみと次々にカゴにいれた。
「ありがとうございました」店員の声に見送られて袋をさげて外にでた。一歩前にでて、深呼吸をする。
「よし」大輔は自分の家とは違う方向。神小牧さんのアパートに向って歩き出した。
 チャイムを押すとしばらくしてインターフォンから神小牧さんの綺麗な声が聞こえてきた。
「はい、どちらさまですか」
「望月です」大輔が言うと息をのむのがわかった。
「神小牧さん、お願いします。少しでいいんです」必死にインターフォンに顔を近づけた。
「少し待って」しばらくしてドアが開いた。
「翔が寝てるから、少しだけ外で」
 神小牧さんはそっとドアを開けて出てきた。アパートの眼の前の小さな公園のほうに、振り向かずに歩き出した。
 公園の入り口を入ってすぐにあるブランコの支柱を掴んで止まった。
「あの」
 大輔が思い切って神小牧さんの背中に声をかけた。
 神小牧さんが振り向いた時、
「ごめん」
「急にすみません!」二人の声が重なった。
「え?」
 大輔には予想外の神小牧さんの言葉だった。
「なんで、ごめんなんですか?」大輔はすっとんきょうな声をだした。
 間抜けな声に、神小牧さんが驚いてその後、吹き出した。
「ごめんごめん。笑うつもりじゃなかったんだけど、望月くんの声がひっくりかえるから」
「それは神小牧さんがごめんなんて予想外のことを言うから」
 笑っていた神小牧さんが真面目な顔になった。
「私、一瞬だけでも望月くんのこと疑ったから、だから…ごめんなさい」
 神小牧さんが深々と頭をさげた。
「え、やめてください。そんな、いいんですっていうか、よくはないけど、それでも頭あげてください!」
「お父さんが言ってたの。私が一瞬、望月くんを疑ってるってわかっちゃったのね。だから、望月くんだけは違うぞって」
(小黒課長…)大輔は感動して涙ぐみそうになったが必死で我慢した。
「だから、本当にごめんなさい。少しでも望月くんのこと疑っちゃって」
「けど…本当に大丈夫なんですか? 小黒課長も神小牧さんも」大輔は心配していたことを素直に聞いた。
「うん、大丈夫。もともと入社前に訳は話してあったし、私も特に仕事で穴をあけたりしたことはないから。でも」
「でも?」
「もしかしたら、お父さんは責任感じているかもしれない。だから心配で」
 神小牧さんは悲しそうに眼を伏せた。睫毛が公園の頼りない街灯の明かりで光るのが見えた。

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