白衣とエプロン 恋は診療時間外に
わちゃわちゃしている間に、すっかりフタを取るタイミングを逸してしまい、せっかくの目玉焼きは“半熟”ならず……(無念)。
それでも、双子の目玉焼きはやっぱり感動だし、産地直送の野菜や果物が満載の朝ごはんはとても贅沢で、疲れた体にしっかりと栄養を与えられたような、そんな気持ちで満たされた。
食後にお茶を飲みながら(このお茶も朝市で買ってきたもの)、私はおもむろに切り出した。
「約束、覚えてくれてます?」
約束というのはもちろん、お休みの日になったらチェロを弾いてくれるというあの約束だ。
「やっぱり忘れてなかったんだね……」
「当然です」
苦笑いする彼にぴしゃりと言う。
「ずっと楽しみにしていたんですから。えーと、ぜんぜん期待しないようにしながら?」
「それはどうも」
彼は曖昧に微笑んでから、ゆっくりと味わうようにお茶を飲んだ。
「私、子どもの頃、あの絵本が好きでした。ほら、チェロ奏者の人に家に、動物が次から次へとやってきて――」
「『セロ弾きのゴーシュ』?」
「そう、それでした!」
「懐かしいね、僕も読んだよ。何度も読み返すようなことはなかったと記憶しているけれど」
「私、本物のチェロを間近で見たことなんてないし。生の演奏を聞いたこともなくて……」
「じゃあ、とりあえず連れて来ようか」
彼はやや大儀そうに立ち上がると、「んんー」と大きく伸びをした。
「楽器もちゃんと手をかけてやらないと元気がなくなってしまうから。きちんとしないとなぁとは思っていたんだ」
「楽器って、どこに置いてあるんですか?」
「仕事部屋。ああ、千佳さんは極力立ち入らないように気を遣ってくれているから」
「ぜんぜん気づきませんでした」
「ちょうど部屋の手前のほう。ドアを閉めて部屋の奥から見ないとわからないとこ」
「そんなところにチェロが潜んでいたとは……」
「実はずっと一緒にいたんだな、僕らと」
彼はふんわり微笑むと「ちょっと待ってて」と、仕事部屋にチェロを迎えに行った。
やってきたのは、ミルクティー色をしていて、大きくて硬そうで、ものすごい重厚感のあるケース。
「すっごい重そうですね」
「ソフトケースは軽くてよいのだけど、どうしても楽器が傷ついてしまうこともあるから」
そして、初めて見る本物のチェロはやっぱり大きくて、なんとも奥ゆかしい美しさがあって、とにかく想像以上の存在感だった。
「木、ですね」
「木、だね」
憧れの楽器との初対面に舞い上がる私を、彼はおもしろそうに、愛おしそうに見つめた。
「とりあえずチューニングして、それから少し練習してもいい?」
「へ?」
「チェロって、というかチェロに限らず弦楽器はそうだと思うけど、すぐに音程がくるってしまうから。調弦が毎回必要なんだ」
「そうなんですね」
それからしばらく、私は楽器と接する彼の姿を興味深く眺めた。
楽器を構えるための準備から、調弦から、何から何まで。
ダイニングチェアに気持ち浅く掛けた彼が、おもむろに楽器を構えて弓を弾く。
低い音から高い音へ、高い音から低い音へ、いったりきたり。
おそらく基礎練習なのだろうけど、私はもうそれだけで心をわしづかみにされていた。
(なんて、きれいなんだろう……)
深みのある音色もさることながら、それを奏でる姿のなんと美しいことだろう。
何かを確かめるような、考えるような表情で、丁寧に音を奏でてゆく。
そのしぐさのすべてに釘付けで、声も出ない。
ふいに音が途切れると、彼がこちらを見て言った。
「千佳さん、ちょっと見すぎ」
照れたように困ったように彼が笑う。
「だって……」
「そんなにおもしろい?」
「それはもう」
「それじゃあ、頑張って何か1つ弾きましょうか?」
「ぜひぜひっ」
私はほどよく距離を取りつつ、壁を背にして彼の真正面になる位置に、体育座りで陣取った。
(スカート、大丈夫だよね?)
もちろん、気にするところはちゃんと気にして上手に座る。
「別にそんな、普通に椅子に座ってきいたらいいのに」
「チェロを聴きにきた森の小さなお友達、という設定なので」
「それはそれは。では……ようこそ、森の小さなお友達?」
こんなおバカなお遊びにも、彼は快くつきあってくれるから。
私は調子に乗ってさらに続けた。
今となってはもううろ覚えの絵本の台詞を思い出しながら。
「えーと……“トロイメライを弾いてごらんなさいな、聞いてあげますから……にゃあ”」
絵本の中だと、猫がトロイメライをリクエストしたにもかかわらず、セロ弾きのゴーシュはわざと別の曲(しかも猫が怯えるような怖い曲)を弾くのだけど――。
“セロ弾きのアキ”は笑って言った。
「じゃあ、“印度の虎狩”ではなく“トロイメライ”を。実は、子どもの頃にものすごく練習した思い出の曲なんだ。だから、これならなんとか弾けそうな気がする」
それでも、双子の目玉焼きはやっぱり感動だし、産地直送の野菜や果物が満載の朝ごはんはとても贅沢で、疲れた体にしっかりと栄養を与えられたような、そんな気持ちで満たされた。
食後にお茶を飲みながら(このお茶も朝市で買ってきたもの)、私はおもむろに切り出した。
「約束、覚えてくれてます?」
約束というのはもちろん、お休みの日になったらチェロを弾いてくれるというあの約束だ。
「やっぱり忘れてなかったんだね……」
「当然です」
苦笑いする彼にぴしゃりと言う。
「ずっと楽しみにしていたんですから。えーと、ぜんぜん期待しないようにしながら?」
「それはどうも」
彼は曖昧に微笑んでから、ゆっくりと味わうようにお茶を飲んだ。
「私、子どもの頃、あの絵本が好きでした。ほら、チェロ奏者の人に家に、動物が次から次へとやってきて――」
「『セロ弾きのゴーシュ』?」
「そう、それでした!」
「懐かしいね、僕も読んだよ。何度も読み返すようなことはなかったと記憶しているけれど」
「私、本物のチェロを間近で見たことなんてないし。生の演奏を聞いたこともなくて……」
「じゃあ、とりあえず連れて来ようか」
彼はやや大儀そうに立ち上がると、「んんー」と大きく伸びをした。
「楽器もちゃんと手をかけてやらないと元気がなくなってしまうから。きちんとしないとなぁとは思っていたんだ」
「楽器って、どこに置いてあるんですか?」
「仕事部屋。ああ、千佳さんは極力立ち入らないように気を遣ってくれているから」
「ぜんぜん気づきませんでした」
「ちょうど部屋の手前のほう。ドアを閉めて部屋の奥から見ないとわからないとこ」
「そんなところにチェロが潜んでいたとは……」
「実はずっと一緒にいたんだな、僕らと」
彼はふんわり微笑むと「ちょっと待ってて」と、仕事部屋にチェロを迎えに行った。
やってきたのは、ミルクティー色をしていて、大きくて硬そうで、ものすごい重厚感のあるケース。
「すっごい重そうですね」
「ソフトケースは軽くてよいのだけど、どうしても楽器が傷ついてしまうこともあるから」
そして、初めて見る本物のチェロはやっぱり大きくて、なんとも奥ゆかしい美しさがあって、とにかく想像以上の存在感だった。
「木、ですね」
「木、だね」
憧れの楽器との初対面に舞い上がる私を、彼はおもしろそうに、愛おしそうに見つめた。
「とりあえずチューニングして、それから少し練習してもいい?」
「へ?」
「チェロって、というかチェロに限らず弦楽器はそうだと思うけど、すぐに音程がくるってしまうから。調弦が毎回必要なんだ」
「そうなんですね」
それからしばらく、私は楽器と接する彼の姿を興味深く眺めた。
楽器を構えるための準備から、調弦から、何から何まで。
ダイニングチェアに気持ち浅く掛けた彼が、おもむろに楽器を構えて弓を弾く。
低い音から高い音へ、高い音から低い音へ、いったりきたり。
おそらく基礎練習なのだろうけど、私はもうそれだけで心をわしづかみにされていた。
(なんて、きれいなんだろう……)
深みのある音色もさることながら、それを奏でる姿のなんと美しいことだろう。
何かを確かめるような、考えるような表情で、丁寧に音を奏でてゆく。
そのしぐさのすべてに釘付けで、声も出ない。
ふいに音が途切れると、彼がこちらを見て言った。
「千佳さん、ちょっと見すぎ」
照れたように困ったように彼が笑う。
「だって……」
「そんなにおもしろい?」
「それはもう」
「それじゃあ、頑張って何か1つ弾きましょうか?」
「ぜひぜひっ」
私はほどよく距離を取りつつ、壁を背にして彼の真正面になる位置に、体育座りで陣取った。
(スカート、大丈夫だよね?)
もちろん、気にするところはちゃんと気にして上手に座る。
「別にそんな、普通に椅子に座ってきいたらいいのに」
「チェロを聴きにきた森の小さなお友達、という設定なので」
「それはそれは。では……ようこそ、森の小さなお友達?」
こんなおバカなお遊びにも、彼は快くつきあってくれるから。
私は調子に乗ってさらに続けた。
今となってはもううろ覚えの絵本の台詞を思い出しながら。
「えーと……“トロイメライを弾いてごらんなさいな、聞いてあげますから……にゃあ”」
絵本の中だと、猫がトロイメライをリクエストしたにもかかわらず、セロ弾きのゴーシュはわざと別の曲(しかも猫が怯えるような怖い曲)を弾くのだけど――。
“セロ弾きのアキ”は笑って言った。
「じゃあ、“印度の虎狩”ではなく“トロイメライ”を。実は、子どもの頃にものすごく練習した思い出の曲なんだ。だから、これならなんとか弾けそうな気がする」