白衣とエプロン 恋は診療時間外に
たとえ何度そうしたことがあったとしても、やっぱりいつだってドキドキする。

ましてや、こんなされ方をしたら……。

自由を奪われ、なす術もなく追いつめられて。

それなのに――どうしようもなくときめいて、この“ごっこ遊び”のような行為のつづきを、知りたいって願ってる。

(離さないで、もっと……)

この手も、唇も、まるごとぜんぶ、どうかこのまま――。

唇が触れ合って、重なって、互いの熱が溶け合って。

溶け合うほどに夢中になって、たまらないほど欲しくなる。

(本当、どうかしている……)

即物的で、背徳的で、倒錯的。

本意ではないと言い訳すれば、いっそう胸が高鳴って、言い知れぬ高揚感に頬が切なく熱くなる。

彼の余裕と冷静が与える意地悪なご褒美。

私は追いつめられて、唇を甘く濡らしては、切ない吐息をひっそり漏らした。

(いつだって、そうやってこの人は……)

これではまるで、欲しがりな子どもと、上手にあやす大人みたい。

貪るように唇を奪われる、なんてぜんぜん。

だって、彼はどうしたって優しいのだもの。

「大丈夫? 嫌じゃなかった?」

少しだけ心配そうに彼が問う。

(嫌だなんて、そんなこと……)

私は「ないですないです」と言わんばかりに首をふるふる横に振った。

でも、すぐにはたと気がづいた。

(あれ? 嫌じゃなかったかという質問に「はい、嫌じゃなかったです」と答えるなら、首は「うん」と縦に振るのが正しいのでは???)

そうして今度は、首をこくこくと縦に振って見せる。

「えーと」

そんな私の謎ムーブに彼がふんわり笑う。

「それで、どちらだろうか?」

本当に彼は優しくって意地悪だ。

私は思い切り限界まで顔を背けると、消え入るような声で答えた。

「……ぃゃ、じゃないです」

「ならよかったです」

彼はくすりと笑うと、私の頭をふわりと撫でて、それから隣にごろんと横になった。

(えっ、と……???)

ものすごく期待していた自分と、素直にがっかりしている自分と、そんな自分をずぇったいに知られたくない自分。

私はつとめて何食わぬ顔をして、寝転がったまま彼のほうへ向き直った。

床に寝そべる彼の姿は、グレちゃんが床にこてんと倒れたときのそれになんだか似ている気がした。

彼が恨めしそうにこちらを見てる。

「もう、君がパンツ見せるから」

「ええっ」

(わ、私のせいっ!? というか、見せるだなんてそんなっ)

「み、見せてないですし!」

「見たよ?」

「わざと見せたりしてないでしょ、と」

「僕だって無理やり見たわけじゃない」

「それは、そうでしょうけど……」

まあ、見たかったわけじゃないのに見せられたと言われても何も言い返せないというか。

「水色?」

「確認とか意味わからないです……」

(なんなら、昨夜あなたが脱がしたパンツと同一パンツですけど何か? なんて……)

なんともアホくさい会話に脱力して、私はふにゃりと笑った。

床に寝そべる大人の男女と、横置きされたチェロと、グレちゃんまでこてんと転がって、気づけばリビングがおかしなことになっていた。

「チェロ、いつ頃から習っていたんですか?」

「小学校に上がる前くらいかな?」

「そんな小さいときから???」

驚く私に、彼は丁寧に説明してくれた。

「分数楽器といって、子どものうちは小さいサイズのものを使うんだよ。それでも、最小でも身長は100センチちょい必要だったかな?」

「そうなんですね」

「ジェットコースターに乗れる乗れないじゃないが、年齢よりも身長が重要だね」

「なるほど」

「だから、3歳とか4歳の頃はヴァイオリンを持たされていたんだ。兄のお下がりの分数楽器があったから」

確か、上のお兄さんがヴァイオリンをやっていたと言っていたっけ。

「チェロはいつまで習っていたんですか?」

「教室は中学の途中までかな。でも、小中高とずっと学校の管弦楽部でやっていたし」

「学校の管弦楽部?」

吹奏楽部ならともかく、管弦楽部って???

「音楽学部がある大学の附属だったからかな。僕みたいに教室に通っているやつも一定数いたし。興味もって未経験で入部して始めるやつもいたよ」

「なんかすごいです」

「まあ、少しめずらしいのかな。で、大学入ってからもそういうサークルに入ってゆるく続けていたりして。バカの一つ覚えみたいに、なんとなくずっと続けてた感じ」

子どもの頃、大学時代、医師として働き始めてからのこと――。

お互いに昔のことを洗いざらい話す必要なんてないし、すべてを知りたいなどという願望もない。

だって、逆に自分が求められても困ってしまうし……。

でも、こういう他愛ない会話で思い出話を聞けるのって、なんかちょっといいなと思う。

「そういえば、トロイメライは思い出の曲って……?」

「ああ、その話かあ」

彼はちょっと困ったように苦笑いした。

「その話ならぜひレイちゃんに聞いてよ」

「麗華先生に、ですか?」

「そう。僕なんかよりレイちゃんのほうが絶対おもしろい話をきかせてくれるはずだからさ」

「なんだかよくわかりませんけど……わかりました」

納得したようなしないような曖昧な気持ちのまま、私はとりあえず了承した。

「ところで、千佳さん」

「なんでしょう?」

「午前中は空いている? それとも忙しい?」

(ああもう、この人はそうやって……)

ずっと心を見透かされていたみたいで、恥ずかしいやら、悔しいやら。

でも、そんなことはどうでもいいくらい嬉しくて。

「空いていますよ」

“安心してください!空いてますよ!”と心の中でキメポーズしちゃう私ですよ。

「では、一緒に二度寝とかどうだろう?」

「いいですね。二度寝」

「でしょ?」

もちろん、お互いに寝ない気まんまんなのは承知のうえ。

なにしろ、私たちはもうその魅惑の味を知ってしまっているから。

ちっとも眠くない彼と私と、久々に仕事を終えて横になっているチェロと、退屈そうに大きなあくびをするグレちゃん。

休日の朝のリビングは、ほんのりした甘い空気と、ゆったりとした優しい時間が流れていた。
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