白衣とエプロン 恋は診療時間外に
後日。
私は案外早く、トロイメライの思い出について知る機会を得た。
お昼休みにサンドイッチが美味しいコーヒー屋さんに入ったら、麗華先生もそこでお昼をとっていて、ご一緒させていただくことになったのだ。
「ねえねえ、チェロは弾いてもらえた?」
私から切り出すまえに、麗華先生からチェロの話題を振られるとは……。
「弾いてもらえましたよ」
「あら、ということは――」
「でも、『愛の挨拶』ではない曲でした」
「そうなの? ざーんねん」
麗華先生はつまらなそうに肩を落とすと、気を取り直すように、美味しそうなフルーツサンドに手を伸ばした。
「あの、弾いてもらったのは『トロイメライ』でして」
「うそっ、よりよって……」
明らかに動揺している麗華先生に私は率直に伝えた。
「この曲の思い出については麗華先生に聞くようにと言われていまして。うかがってもよろしいでしょうか?」
「アキのやつぅー、まったくもう」
麗華先生は思い切りバツの悪そうな顔をしたけれど、あきらめた様子でその思い出を話してくれた。
「私たち、発表会で一緒に弾いたことがあるのよ」
「一緒に、というと?」
「私がね、よせばいいのに伴奏をやるやるって言い出して」
「なるほど」
「でもほら、私ってば熱しやすく冷めやすいというか。練習嫌いだし? それでまあ、完全な練習不足で本番とちっちゃって」
ここまで聞いて、先日の話とつながった。
(子どもの頃のことを根にもっているとかいないとかって、これのことだ)
「アキの演奏は完璧だったのよ、本当に。あいつは努力家だから」
なんだか容易に想像できてしまった。
自分が納得いく演奏ができるまで、何度も何度も練習を繰り返す様子とか。
ひたむきに、ひたすらに、音楽と向き合うその姿を。
「まあ、アキだけじゃなくて、保坂兄弟は末っ子のフユ以外みんな努力の人なんだけどね」
「努力の人、ですか?」
「完璧主義、生真面目、誠実真摯。常に成績優秀だったわよ。フユは生まれつき頭がよくて要領がいいタイプだったけど」
「四人ともお医者様なんですよね」
「そうね。それぞれ違う診療科を選んだけど。演奏も四人それぞれ個性があるのよねぇ」
(演奏に、個性……?)
そう言われても、音楽にうとい私にはいまいちピンとこないのだけど。
「アキのチェロ、素敵だったでしょ?」
「はいっ、それはもう、とっても!」
「あらあら」
鼻息を荒くする私を、麗華先生が愉快そうに笑う。
「アキの演奏はそうねぇ、まさに“いぶし銀”っていうのかしら」
「あー、確かに」
そのニュアンスは私にもなんとなく理解できた。
華やかというよりは、落ち着いていて気品がある感じ。
そう、はじめて本物のチェロを見たときに抱いたあの印象と同じだ。
深みがあって、奥ゆかしい美しさがある、そういった佇まい。
「せっかくだから、リクエストしたらよかったのに『愛の挨拶』」
「それはちょっと……」
ぐいぐいくる麗華先生にちょっとひるみながらも、私は「そのうち聴けたらいいのですけどね」などと、どうにかうまくお茶を濁した。
でも、本当は――。
あの日、ちっとも寝ない二度寝(?)のあと――。
なんとも心地よい気だるさの中で、彼は静かな瞳で私を見つめた。
「聞いても、いいだろうか?」
「なんでしょう?」
「たくさん練習するから」
「え?」
「君に……君にも自分にも恥ずかしくない演奏ができるようになったら」
その真剣なまなざしが瞳をとらえ、その真っすぐな言葉が心を射抜く。
「聴いて、もらえるだろうか?」
そうして――胸の高鳴りを必死におさえながら彼の言葉を待つ私に、その曲名は届いた。
「君のために弾く『愛の挨拶』を」
なんて彼らしいのだろう。
慎重で、堅実で、思慮深い。
誠実な彼の優しい挨拶に、私はもう胸がいっぱいで――。
「ぜひ、聴かせてください」
涙がふるえ落ちるのを必死にこらえながら、心をこめてようやくお答えしたのだった。
私は案外早く、トロイメライの思い出について知る機会を得た。
お昼休みにサンドイッチが美味しいコーヒー屋さんに入ったら、麗華先生もそこでお昼をとっていて、ご一緒させていただくことになったのだ。
「ねえねえ、チェロは弾いてもらえた?」
私から切り出すまえに、麗華先生からチェロの話題を振られるとは……。
「弾いてもらえましたよ」
「あら、ということは――」
「でも、『愛の挨拶』ではない曲でした」
「そうなの? ざーんねん」
麗華先生はつまらなそうに肩を落とすと、気を取り直すように、美味しそうなフルーツサンドに手を伸ばした。
「あの、弾いてもらったのは『トロイメライ』でして」
「うそっ、よりよって……」
明らかに動揺している麗華先生に私は率直に伝えた。
「この曲の思い出については麗華先生に聞くようにと言われていまして。うかがってもよろしいでしょうか?」
「アキのやつぅー、まったくもう」
麗華先生は思い切りバツの悪そうな顔をしたけれど、あきらめた様子でその思い出を話してくれた。
「私たち、発表会で一緒に弾いたことがあるのよ」
「一緒に、というと?」
「私がね、よせばいいのに伴奏をやるやるって言い出して」
「なるほど」
「でもほら、私ってば熱しやすく冷めやすいというか。練習嫌いだし? それでまあ、完全な練習不足で本番とちっちゃって」
ここまで聞いて、先日の話とつながった。
(子どもの頃のことを根にもっているとかいないとかって、これのことだ)
「アキの演奏は完璧だったのよ、本当に。あいつは努力家だから」
なんだか容易に想像できてしまった。
自分が納得いく演奏ができるまで、何度も何度も練習を繰り返す様子とか。
ひたむきに、ひたすらに、音楽と向き合うその姿を。
「まあ、アキだけじゃなくて、保坂兄弟は末っ子のフユ以外みんな努力の人なんだけどね」
「努力の人、ですか?」
「完璧主義、生真面目、誠実真摯。常に成績優秀だったわよ。フユは生まれつき頭がよくて要領がいいタイプだったけど」
「四人ともお医者様なんですよね」
「そうね。それぞれ違う診療科を選んだけど。演奏も四人それぞれ個性があるのよねぇ」
(演奏に、個性……?)
そう言われても、音楽にうとい私にはいまいちピンとこないのだけど。
「アキのチェロ、素敵だったでしょ?」
「はいっ、それはもう、とっても!」
「あらあら」
鼻息を荒くする私を、麗華先生が愉快そうに笑う。
「アキの演奏はそうねぇ、まさに“いぶし銀”っていうのかしら」
「あー、確かに」
そのニュアンスは私にもなんとなく理解できた。
華やかというよりは、落ち着いていて気品がある感じ。
そう、はじめて本物のチェロを見たときに抱いたあの印象と同じだ。
深みがあって、奥ゆかしい美しさがある、そういった佇まい。
「せっかくだから、リクエストしたらよかったのに『愛の挨拶』」
「それはちょっと……」
ぐいぐいくる麗華先生にちょっとひるみながらも、私は「そのうち聴けたらいいのですけどね」などと、どうにかうまくお茶を濁した。
でも、本当は――。
あの日、ちっとも寝ない二度寝(?)のあと――。
なんとも心地よい気だるさの中で、彼は静かな瞳で私を見つめた。
「聞いても、いいだろうか?」
「なんでしょう?」
「たくさん練習するから」
「え?」
「君に……君にも自分にも恥ずかしくない演奏ができるようになったら」
その真剣なまなざしが瞳をとらえ、その真っすぐな言葉が心を射抜く。
「聴いて、もらえるだろうか?」
そうして――胸の高鳴りを必死におさえながら彼の言葉を待つ私に、その曲名は届いた。
「君のために弾く『愛の挨拶』を」
なんて彼らしいのだろう。
慎重で、堅実で、思慮深い。
誠実な彼の優しい挨拶に、私はもう胸がいっぱいで――。
「ぜひ、聴かせてください」
涙がふるえ落ちるのを必死にこらえながら、心をこめてようやくお答えしたのだった。