白衣とエプロン 恋は診療時間外に
翌日、金曜の朝。
家を出る前に、彼は北側のあの部屋のドアの前に立ち止まると、ポケットからコインケースを取り出した。
「兄は慌てん坊なので」
そうして、硬貨で施錠したドアを解錠した。
私がこの家に来た日に、見せてくれたように。
「ドアに鍵なんてかかっていたら、開かないあかないと大慌てしそうだから」
「そうなんですね」
(昨夜の違和感はやっぱりただの気のせいかも?)
彼に特段変わった様子はなく、私たちはいつものようにグレちゃんに留守を任せて出勤した。
先週にひきつづき、今日もまた彼は兼務するクリニックへ出勤で、そちらへ行く前に私を送ってくれた。
先日は思いがけず貴志先生に車を降りるところを見られてしまった。
そんなことがあったから、今日は送ってもらうのをよそうかとも思ったけれど、彼が気にせず普通通りにしようと言ったので、私も気にしないことにした。
今朝はコンビニへ寄る用事もなかったので、いつもの場所で車をとめてもらった。
「ごめん、一緒にいてあげられなくて」
「そんな、謝らないでください」
「でも、とても不安そうな顔をしているから」
「えっ」
(自分ではまったくそんなつもりなかったのだけど……)
「本当はこのまま一緒に連れて行きたいくらいだよ」
(秋彦さん……)
私の手をそっと握った彼の顔が、それこそとても不安そうだったから。
私はちょっと困りながらも嬉しくて、なんだか勇気が湧いてきて、ギュッギュとその手を握り返た。
「大丈夫ですよ。だから、秋彦さんは安心して出勤してください」
「まいったな、逆に元気づけられてしまった」
顔を見合わせてふたりでふふふと笑ったら、いっそう元気が湧いてきた。
「じゃあ、いってきますね。いってらしゃい」
「いってきます。千佳さんも、いってらっしゃい」
そうして、彼にあたたかく送り出された私は、やっぱり見えなくなるまで彼の車を見送った。
クリニックの朝は、とりあえずいつもどおりだった。
これはある意味想定内というか。
なにしろ桑野先生も貴志先生もいつも出勤はギリギリで、すぐに慌ただしく診察となるので。
心配なのは昼休み、だったのだけど――。
昼休憩で皆がスタッフルームに集まり始めるやいなや、桑野先生が鼻息荒く喋り始めた。
「自分、昨日マジですっげーとこ見ちゃったんですけど!」
それは、それこそまったく想定外の衝撃だった。
「なんと!保坂先生が女性と腕組んで歩いてたんですよ!」
スタッフルームは一瞬しんと静まり返った。
けれども、およそ一拍おいてから女性たちの黄色い声とともにどよめいた。
皆の反応に気をよくした桑野先生がさらに続ける。
「しかも、長身の超美人で!女性のほうから保坂先生にべったりしてる感じでしたねえ」
「うそーっ、あの保坂先生が!?」
「見間違いとかじゃないんですかぁ?」
「いや、絶対にあれは保坂先生でした」
「うわー、案外やることやってるのねえ」
本人や麗華先生がいないのをいいことに、言いたい放題。
唐木さんもちょうど外にお昼を買いに出ていていないし。
福山さんはあからさまに苦々しい顔をして、むすっと黙っている。
私はというと、もう何がなんだかわからないという感じで……。
とにかくこの場から一刻も早く離れたくて、ロッカーから荷物をとってスタッフルームを出た。
足早にクリニックを後にして、そのままずんずん外へ外へと黙々と歩く。
(と、とにかく落ち着こう。ご飯、ご飯たべよう……)
まったく頭が働いていなかったけれど、ほぼ無意識にお気に入りの和食屋さんへ向かっていた。
混雑のピークを過ぎた店内はわりと静かで、私は奥の隅っこの席に落ち着いた。
そう、落ち着いたと思ったのに――。
「お昼、ご一緒させてもらうよ?」
顔を上げると、笑顔の貴志先生が立っていた。
「えっ、と……」
こうなってしまうともう、私には拒否権はないわけで。
しかも、席を移動しようものなら、ついてきそうな勢いだし。
「先生、私のあとをつけていらしたんですか……」
私は目を合わせないまま、げんなりとため息をついた。
けれども、貴志先生はやっぱりどこ吹く風。
まるで待ち合わせでもしていたみたいに、ナチュラルに向かいの席に腰をおろす。
「だって、まともに誘ったらキミは断るでしょ?」
「だからって」
ちょうど店員さんがきて注文を済ませると、貴志先生は再びご機嫌に話し始めた。
「じゃあ、偶然だよ、偶然。ボクがここのご飯を食べたいと思っていたら、キミが前を歩いていて。なんと、キミも同じ店に入っていくところが見えて」
「しらじらしい」
「言うねぇ、キミ」
「先生こそ、貴公子キャラが台無しですよ」
「ボクは心優しい貴公子だよ」
貴志先生はお茶を飲んで一息つくと、頬杖をついて私にたずねた。
「桑野先生がしていた話、詳しく聞きたくない?」
「えっ……」
家を出る前に、彼は北側のあの部屋のドアの前に立ち止まると、ポケットからコインケースを取り出した。
「兄は慌てん坊なので」
そうして、硬貨で施錠したドアを解錠した。
私がこの家に来た日に、見せてくれたように。
「ドアに鍵なんてかかっていたら、開かないあかないと大慌てしそうだから」
「そうなんですね」
(昨夜の違和感はやっぱりただの気のせいかも?)
彼に特段変わった様子はなく、私たちはいつものようにグレちゃんに留守を任せて出勤した。
先週にひきつづき、今日もまた彼は兼務するクリニックへ出勤で、そちらへ行く前に私を送ってくれた。
先日は思いがけず貴志先生に車を降りるところを見られてしまった。
そんなことがあったから、今日は送ってもらうのをよそうかとも思ったけれど、彼が気にせず普通通りにしようと言ったので、私も気にしないことにした。
今朝はコンビニへ寄る用事もなかったので、いつもの場所で車をとめてもらった。
「ごめん、一緒にいてあげられなくて」
「そんな、謝らないでください」
「でも、とても不安そうな顔をしているから」
「えっ」
(自分ではまったくそんなつもりなかったのだけど……)
「本当はこのまま一緒に連れて行きたいくらいだよ」
(秋彦さん……)
私の手をそっと握った彼の顔が、それこそとても不安そうだったから。
私はちょっと困りながらも嬉しくて、なんだか勇気が湧いてきて、ギュッギュとその手を握り返た。
「大丈夫ですよ。だから、秋彦さんは安心して出勤してください」
「まいったな、逆に元気づけられてしまった」
顔を見合わせてふたりでふふふと笑ったら、いっそう元気が湧いてきた。
「じゃあ、いってきますね。いってらしゃい」
「いってきます。千佳さんも、いってらっしゃい」
そうして、彼にあたたかく送り出された私は、やっぱり見えなくなるまで彼の車を見送った。
クリニックの朝は、とりあえずいつもどおりだった。
これはある意味想定内というか。
なにしろ桑野先生も貴志先生もいつも出勤はギリギリで、すぐに慌ただしく診察となるので。
心配なのは昼休み、だったのだけど――。
昼休憩で皆がスタッフルームに集まり始めるやいなや、桑野先生が鼻息荒く喋り始めた。
「自分、昨日マジですっげーとこ見ちゃったんですけど!」
それは、それこそまったく想定外の衝撃だった。
「なんと!保坂先生が女性と腕組んで歩いてたんですよ!」
スタッフルームは一瞬しんと静まり返った。
けれども、およそ一拍おいてから女性たちの黄色い声とともにどよめいた。
皆の反応に気をよくした桑野先生がさらに続ける。
「しかも、長身の超美人で!女性のほうから保坂先生にべったりしてる感じでしたねえ」
「うそーっ、あの保坂先生が!?」
「見間違いとかじゃないんですかぁ?」
「いや、絶対にあれは保坂先生でした」
「うわー、案外やることやってるのねえ」
本人や麗華先生がいないのをいいことに、言いたい放題。
唐木さんもちょうど外にお昼を買いに出ていていないし。
福山さんはあからさまに苦々しい顔をして、むすっと黙っている。
私はというと、もう何がなんだかわからないという感じで……。
とにかくこの場から一刻も早く離れたくて、ロッカーから荷物をとってスタッフルームを出た。
足早にクリニックを後にして、そのままずんずん外へ外へと黙々と歩く。
(と、とにかく落ち着こう。ご飯、ご飯たべよう……)
まったく頭が働いていなかったけれど、ほぼ無意識にお気に入りの和食屋さんへ向かっていた。
混雑のピークを過ぎた店内はわりと静かで、私は奥の隅っこの席に落ち着いた。
そう、落ち着いたと思ったのに――。
「お昼、ご一緒させてもらうよ?」
顔を上げると、笑顔の貴志先生が立っていた。
「えっ、と……」
こうなってしまうともう、私には拒否権はないわけで。
しかも、席を移動しようものなら、ついてきそうな勢いだし。
「先生、私のあとをつけていらしたんですか……」
私は目を合わせないまま、げんなりとため息をついた。
けれども、貴志先生はやっぱりどこ吹く風。
まるで待ち合わせでもしていたみたいに、ナチュラルに向かいの席に腰をおろす。
「だって、まともに誘ったらキミは断るでしょ?」
「だからって」
ちょうど店員さんがきて注文を済ませると、貴志先生は再びご機嫌に話し始めた。
「じゃあ、偶然だよ、偶然。ボクがここのご飯を食べたいと思っていたら、キミが前を歩いていて。なんと、キミも同じ店に入っていくところが見えて」
「しらじらしい」
「言うねぇ、キミ」
「先生こそ、貴公子キャラが台無しですよ」
「ボクは心優しい貴公子だよ」
貴志先生はお茶を飲んで一息つくと、頬杖をついて私にたずねた。
「桑野先生がしていた話、詳しく聞きたくない?」
「えっ……」