白衣とエプロン 恋は診療時間外に
あー、どうしよう。もうこれ、底なし沼だ。


「保坂先生って」

「なんだろう?」

「いやその……ものすごく斬新な気の遣い方をしてくださるから」

斬新っていうか、大胆っていうか、明け透けっていうか。

捨て身のギャグならぬ、捨て身の気遣い。

そういう先生の優しさが、どうしようもなく、あったかくて愛おしい。

「千佳さん、引いてる?」

「そう見えますか?」

「そうは見えないが」

「逆です」

「逆とは?」

「沼ってます。私、先生のそういうところが大好きみたいです。なんか、すみません……」


ああ、言ってしまった。しかも、言い方!


「なぜ謝る?」

「だって、先生カッコいいところいっぱいあるのに。これじゃあ、モテ職業の無駄使いみたいじゃないですか」

「まったく、君という人は……」


呆れたような口調とは裏腹に、先生はなんだかとっても嬉しそう。


「で、キーワードはどうしたものか」

「どうしましょう」

「よければ千佳さんが決めて。君が言いやすいものなら何でも。ただし、長すぎるものや発音が難しいものは避けてもらえると助かるかな」

言いやすいもの? 馴染みのあるもの?? なんだろう???

こういうときは、あまり考えすぎず直感にまかせよう。


「じゃあ、“麦粒鉗子(ばくりゅうかんし)”で」

「そうきたか……」


麦粒鉗子は耳鼻科医がよく使用する道具のひとつ。

持ち手の部分がハサミによく似ているけれど、その先端は切るためでなく、耳垢を除去するために使われる。


「まあ、言い慣れている言葉ではあるのかな。君にしても、僕にしても」

「毎日飽きるほど見てますしね」


約束の言葉は決まった。

先生と私だけの秘密のルール。

そして、心はもうずっとずっと決まっている。


「どうだろう? 少しは気持ちが楽になった?」

「それはもう」


私は先生の胸に頬をうずめた。

ふうわりと優しい匂いとぬくもり。

私がありのままでいられる場所。


「ここはとても居心地がいいですから」

「それなら、ずっとここにいて」


ああもう、幸せすぎて死んじゃいそう。


「先生」

「うん?」

「猫冥利につきます」

「君のそういうところが好きだよ。あ、僕は謝らないが」

「根にもってます?」

「さて、念のため台詞の練習をしておこうか」

おおー、華麗にスルーときましたか。

って、台詞の練習というと。


「…………麦粒鉗子?」


私の言い方がおかしかったのか、先生も私も途端に笑いがこみあげてきて――。


「すまない。決してぶさけているわけではないのだが。しかし、これはなんとも……」

「じわじわきますね…………麦粒鉗子?」


どうしようもなくツボってしまい、私たちは顔を見合わせ笑いあった。


「だって普通は、こんなときに言う言葉じゃないですもん。しかも、私ってばこんなかっこうですし」

あらわになったままの胸が、これまたなんだか滑稽に思えて、私はくつくつと笑った。


「いいね、笑ってる千佳さん」

「え?」

「でも、どんな千佳さんでも、千佳さんは千佳さんだから」


(先生……)


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