白衣とエプロン 恋は診療時間外に
彼も私も平日の朝はルーティンどおりに動きたいタイプ。

だから、家を出る時間は毎日ほぼ同じ。

そして、車で聞くのは必ずラジオ。

しかも、いつも同じ番組と決まっている。

「あ、今日ってけっこう道路空いてたりします?」

交差点の信号待ちのタイミングでそう思ったけれど、とくに車の流れが気になったとかではない。

「お天気お兄さんのコーナー、いつもはもう少し先のところで始まるのに」

なにしろ毎日同じ行動パターンなので、こういう違和感も気づきやすい。

「確かに今朝は流れがよいかな。なんとなくだけど路駐が少なかった気がする」

「駅入口のあたりです? あのへんいつもひどいから」

なんでもない会話のようだけど、こういうときに実感する幸せがある。

私たちは毎日一緒に寝て起きて、ご飯を食べて、仕事に行って、同じ日常をすごしているのだと。

小さな幸福を積み重ねていける大きな幸運、みたいな。

信号が青に変わって、車が再び走り出す。

わずかに会話が途切れたあと、彼がぽつりと言った。

「自動的に解消するはずだから」

「路駐の渋滞が、ですか?」

「ごめん、そうではなくて」

「へ?」

「職場でうっかり名前呼びが心配という話」

「あー」

この流れで察するのはさすがに無理ですし……。

それに「自動的に解消する」とはいったい???

私の困惑をよそに彼は続けた。

「はっきりしたことはまだ言えないが。ただ、職場での君の心配はなくなるはずだから」

(……というと???)

「とりあえず心に留めておいてもらえるだろうか。近いうちにきちんと話せると思うから、それまでは。中途半端で申し訳ないが」

どうにもこうにも話が見えないのだけど……。

ただ、“そのうち慣れるさ”といった気休めの話でないのはわかった。

それに「心配がなくなる」というのはよいことに違いない。

なにより、私を気遣う彼の気持ちが伝わったので。

ここはもうあれこれ詮索せずに、思いやりを素直に受け取るだけにした。

「えーとですね、とにかく職場でもあまり気負わず気楽にすごして大丈夫だよ、ってことですよね?」

「そういうこと」


本日の担当医は午前午後とも麗華先生と保坂先生。

最近じわじわと保坂先生の人気が上昇している気がする。

断じて私のひいき目とかではなくて。

例えば――。

受付のとき、当院では必ず患者さんに医師の希望はあるかを聞いているのだけど。

「先生のご希望はありますか?」

「あー、今日って誰先生の日でしたっけ?」

「若狭先生と保坂先生……いつもの女性の先生と眼鏡の男の先生ですよ」

患者さんは先生の顔は覚えていても名前はそうでもないことも多い。

麗華先生(若狭先生)は「いつもいる女性の先生」、保坂先生は「眼鏡の男の先生」、桑野先生は「元気な若い男の先生」みたいに説明すると通じやすい。

ちなみに、貴志先生のことは「男の先生で、若い元気な先生でも眼鏡の先生でもない先生」みたいなひどい言い方になっている……。

けどまあ、福山さんが「キラキラしたイケメンの先生です!」と言っているので、貴志先生の面子は十分保たれているでしょう、と。

麗華先生は圧倒的な人気と信頼があり、診察を希望する患者さんが多い。

そうすると「麗華先生だとけっこう待たなきゃだけど、別の先生なら少し早く診てもらえるかも?」という状況が起きる。

その「別の先生」が貴志先生や桑野先生だと、患者さんは渋い顔をして「じゃあ待ちます」と言うか、困り顔で「急いでいるので別の先生でいいです」と肩を落とすか……。

でも、保坂先生のときは患者さんの反応がちょっと違う。

「なら、どっちの先生でもいいです」

最近こういう患者さんが増えている気がする。

「麗華先生が第一希望だけど保坂先生でもぜんぜんいいよ」みたいな。

そういう状況に、心の中で私は勝手に得意げになる。

(そりゃあそうでしょうよ。彼は何しろ腕がいいから。それに、愛想笑いこそしないけど優しいし、患者さんの話を丁寧に聞くし。機嫌だの気分だのに振り回されないし。陰で患者さんの悪口なんて絶対言わないし。とにかく凄いんだから!)

もちろん、貴志先生や桑野先生を指名する患者さんもそれなりにいる。

貴志先生はやっぱり女性の患者さんが多いし。

でも、私が観察(?)してわかったのは、はじめは貴志先生や桑野先生を指名していた患者さんが、保坂先生に乗り換えるパターンが一定数あるということ。

とくに、保坂先生は幼いお子さんをもつ親御さんから信頼を得ているように思う。

先生の診察は処置が早くて丁寧なだけでなく、わかりやすいから。

「清水さん、“シューシューモクモク”お願いします」

先生が言う“シューシューモクモク”とはネプライザーのこと。

ネプライザーは液体の状態のお薬を霧状にして出す医療機器で、喘息や気管支炎などの治療に使用される。

モクモク(お薬の霧)をただ吸っているだけで肺や気管にお薬が届くので、お子さんの治療にも使いやすい。

「はい。それじゃあこちらでシューシューモクモクしますので、台の前の空いてるお椅子に座ってください」

幼い患者さんをご案内しながら、心の中でふふふと笑う。

シューシューという機械の音と、モクモクでてくる霧で、シューシューモクモク。

私はやっぱり笑ってしまいそうになるのだけれど、保坂先生はいつもいたって真面目な顔でこれを言う。
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