明日へ馳せる思い出のカケラ
 俺は声も無くたたずむ君の前を通り過ぎ、倒れる彼のすぐ隣にヒザをつく。
 そして彼の体を優しく掴むと、ゆっくりと体勢を仰向けに変えた。
 俺は彼の頬を軽く叩きながら、その耳元で大きく叫ぶ。

「しっかりして下さい。俺の声が聞こえますか!」

 クソっ、あの時と同じだ。まるで反応が無い。
 尋常でないほどの悪寒が全身を駆け抜けていく。またそれに呼応するかの様に、苦い吐き気が湧き上がって来た。

 逃げ出したい。怖くて堪らない。
 自分から歩み寄ったっていうのに、臆病風に吹かれて身がすくみ上がる。

 でも俺には諦めるなんて出来なかった。ううん、もう逃げ出す事の方が耐えられなかったんだ。
 だって君が強く願っていたから。
 君が俺にすがる想いにどう応えなければいけないのか、それを心が受け止めていたから。
 だから俺は震える手を懸命に押さえつけて、意識の無い彼に正面から向き合ったんだ。

 君にしてみたって、冷静でなんかいられるはずがなかっただろうに。
 共に競技に参加していた彼氏が突然倒れ、その直後に元カレである俺がその場に現れたんだ。
 気が狂ってしまうくらいにパニックになって然るべきはずなんだよね。

 でも君は錯綜した口ぶりではあるものの、それでも俺に伝わる様、必死で状況を説明してくれたんだ。

「彼、最近仕事が忙しくて、疲れが溜まってたんだと思う。実は昨日もあまり寝ていなかったみたいだし。
 だから私言ったの。無理しないでって。それなのに彼は――」

「彼は君の事を本当に大切に想ってるからこそ、無理を承知でこのマラソンに参加したんだよ。
 君と一緒の時間を何よりも大事にしたい。頼むからそんな彼の優しさを、責めないでくれ」

 君に向かってそう呟いた俺は、彼の首をそっと持ち上げる。そしてその口元に耳を傾けて呼吸を確かめた。

 彼の汗ばんだ首筋がやけに冷たい。人のものとは思えない奇妙な感覚に肝が震える。
 忘れるはずがない。かつて味わった事のある異常な不快感。
 そう、これは意識の途切れた彼女の体から伝わった、あの感覚と同じものなんだ。

 案の定、呼吸は止まっていた。
 それによって強制的に甦るあの日の記憶。
 冷たくなっていく彼の感触に、かつての彼女の感覚が重なってしまい、尋常でない嫌悪感が急速に俺の心を支配していく。
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