明日へ馳せる思い出のカケラ
 俺と君が初めて出会ったのは、大学二年が終わった春休みだったね。梅の花が綺麗に咲いた三月の初め頃だったけど、まだかなり寒かった事をよく覚えているよ。

 そんな中ひと汗流したくなった俺は、一ヶ月ぶりに構内の陸上トラックへと足を運んだんだ。後期試験で溜まりに溜まったうっぷんを晴らすのを目的として。

 でも一ヶ月のブランクは予想以上に辛くて、1万メートルを専門に日頃トレーニングを続けていた俺だったけど、その時は半分の5千メートルで足が止まってしまったんだ。

「試験勉強で練習出来なかったんだから、仕方ないよな……」

 俺はそんな自分本位な理屈で体力のおとろえを誤魔化そうとしていた。ただ単に練習をサボっていた自分を認めたくなかっただけなのにね。

 誰が見ているわけでもないのに、強がりでもろい胸の内を隠そうと必死になる。俺はガキの頃から自分自身に対してのみ、妙なプライドを抱く性格だったんだ。だからいつでも言い訳だけは得意だった。
 そしてそんな都合の良い自分の解釈はすぐに忘れてしまう。タチが悪い事に、希薄な感情は記憶に残ってはくれなかった。

 自身に課したノルマであったはずの1万メートルを早々に諦めた俺は、息を整えながらトラックの外周を軽くジョグし始める。
 俺が日々の練習の中で一番好きなのが、このクールダウンのジョグだ。ゆっくりとした動作で駆けながら、早まった鼓動を鎮めていく。この気持ち良さが何とも堪らない。
 ただ一度それを友人に言ったらえらく馬鹿にされた。それってそんなに変わった事なんだろうか。

 はやりの音楽をダビングした携帯型のオーディオプレイヤーをポケットに仕舞い、細いコードの延びるイヤホンを耳に当てる。
 やっぱり好きな音楽を聴きながら走るのは気持ちが良い。本音では1万メートルのトレーニング時にも音楽を聞きながら走りたいくらいだ。それならもっと良いタイムが出せるはずだし、なにより辛い練習をもっと好きになれたはずなんだから。

 けどさすがにそれはコーチに見つかると叱られるため諦めていた。
 教師に反発してまで我を通す勇気は無いし、そもそも俺は波風立てることを嫌う事なかれ主義者なんだ。厄介事は避けて通るに越したことは無い。

 夕暮れ時のトラックは静かだった。走り幅跳びの練習をしている二つの人影が遠くの砂場に見えるけど、それ以外には誰もいない。いや、清掃作業をしている年配男性職員の姿も見えるか。でもそれだけだ。
 大学生にもなると、本格的に大会で上位を目指す者以外は、テスト明け直後から練習などするはずもない。俺が物好きなだけなんだろう。

 そんなどうでも良い事ばかりを思い浮かべながらトラックの外周を二回りした頃には、ほとんど息は整っていた。
 少し走り足りない気もするけど、今日は体を慣らすだけにしよう。そう思った俺は、あと一曲分だけ走ったら帰ろうと決めた。――がその時だった。
 俺は突然危機が迫ったかの様な、女性の悲痛な声で呼び掛けられたんだ。
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