明日へ馳せる思い出のカケラ
 驚きを通り越して呆れるほどだったよ。だって彼は昨日、1500メートルを予選と決勝で2レース全力で走っているんだからね。そして彼はその種目で優勝しているんだ。

 でもいくら実力があるからって、少し頑張り過ぎなんじゃないのか。1500メートルは走る時間にしては4分程度と、たいした事は無いように思う人もいるだろう。だけど本番のレースで走るっていうのは肉体的にはおろか、精神的にもかなり消耗するはずなんだ。それなのに休養無しで1万メートル走にまで参加するなんて、本当に恐れ入るよ。

 それともアフリカ人と日本人では根本的に体の造りが違うって事なのだろうか。いや、そもそも彼にしてみれば1500メートルなんて、走った内に入らないのかもしれない。
 たぶん貧弱な俺の考えが乏しいだけなんだろう。それに俺以外の選手達は彼をそれほど意識していない気がする。きっと箱根を目指す勇士達にしてみれば、彼はライバルの一人ではあれ、恐れるに足りない存在なのかも知れない。俺から見れば化け物にしか見えない彼の存在がね。

 ここに来てあまりのレベルの高さに俺の心は完全に冷めきってしまった。諦めたと言ったほうがしっくりくるほどにね。
 でも心が折れた事で、張り詰めていたキツイ気持ちからも解放されたんだ。
 そしてそれが幸いしたのか、気分がどんどん楽になるのが分かる。するとそんな俺の胸の内を、さらに腰砕けさせる現象がその時発生したんだ。

 自分の大好きな曲ばかりをダビングしたはずのオーディオプレイヤーから、聞きなれない音楽が流れて来る。
 それは絶妙なミディアムテンポで俺からやる気を削ぎ取ってゆくんだ。いや、例えを変えるならば心が和むと言ったところか。

 爆発的な人気を誇る若手の女性ヴォーカリストの曲だというのは直ぐに理解出来た。でもなんでこの曲が俺のオーディオプレイヤーに入っているんだ?
 俺は耳を疑った。だって俺はどちらかといえばアップテンポのロックミュージックを好んで聞いていたし、何よりこれから試合に臨む大切な時間に聞く音楽なんだから、尚更闘志を掻き立てる激しい楽曲ばかりを選曲しダビングしていたはずなんだ。
 それなのに身に覚えのない曲が確かに聞こえて来る。

 君の仕業か――。証拠は無いけどそれしか考えられない。
 だって君はこの歌が大好きだったし、この女性歌手のファンだったはずなんだ。
 そう思い返せば君は昨日、俺のオーディオプレイヤーをいじっていた気がする。俺に内緒でその時に仕組んだんだろう。きっと君の事だ、自分の大好きな曲だから、俺もそれを聞けば力が湧くだろうと考えたんだね。

 別に俺だって、この曲や歌手のことが嫌いってわけじゃない。まぁ、君に勧められて初めて聞いた時は、ストレートな恋心をつづった歌詞に気恥ずかしさを覚えたのは正直な気持ちだけどね。
 でも何度も聞くうちに歌詞に込められた想いが俺なりに理解出来て、今ではすごく好きになったのも本当なんだ。けどこの曲は君とデートする時にぴったり合う曲なんだよね。

 闘志を熱く燃やすのとは正反対に、心を穏やかに落ち着かせる。そんな曲なんだよね、これはさ。まったく、大事なレースの直前なのに、こんな気分になるなんて勘弁してほしいよ。

 ウォーミングアップを切り上げた俺は、そんな緩い思いを頭に浮かべながら控え場所のあるスタンドに向かおうとした。でもそこで俺を待ち受けていたのは他の誰でもない、君だったんだ。
< 35 / 173 >

この作品をシェア

pagetop