明日へ馳せる思い出のカケラ
「バ~カ。こんなの冗談に決まってるだろ。なに本気で泣きそうになってんだよ。内緒で俺のオーディオにダビングしたお返しさ!」

 俺は力強く立ち上がった。大体あんな貧力なパンチが利くわけないじゃないか。それを本気にするなんて、君はよっぽど人が良いんだろうね。いや、もしかしたら俺の演技が迫真過ぎたのか。

 俺は声を上げて笑ってしまった。まんまと陥れられた君の姿が可笑しくて堪らなかったんだ。そしてそんな俺に対し、君は頬を膨らませて怒るものとばかり思っていた。
 でも君は涙を浮かべたまま、その場に力無くうずくまったままだったんだよね。
 膝の上に乗せた握り拳が僅かに震えているのが分かる。怒るというよりは、悲しんでいるといったほうが合っているのだろうか。

 君を笑った事が、そんなにも心を痛めるものだったのだろうか。――いや待てよ。もしかして、俺の冗談を真似するつもりなんじゃないのか?

 騙されないぞとばかりに不敵な笑みを浮かべた俺は、君の前にしゃがみ込む。でもそんな俺に向かって口を開いた君は、静かにこう告げたんだ。

「そういう冗談だけは止してよ。あの日の事、思い出しちゃうじゃない……」

 軽率な行為だったと悔やんだのは俺のほうだった。トラウマになった君の気持ちを俺は無残にも踏みにじってしまったんだ。
 救い様のないバカだよ、俺って奴はさ。まだ微かに感じるレース本番への緊張感を和らげたいだけだったのに、なぜこうも簡単に人を傷付けてしまうのだろうか。

 言い様の無い無念さに駆られ俺は胸を痛めた。取り返しのつかない酷い仕打ちを君にしてしまったのだと、心の中でただ嘆く事しか出来なかったんだ。

 何か一言だけでも、君の気持ちを癒してあげる言葉を掛けてあげなくちゃ。
 焦りながらそう必死に考える俺は、君の震えた手をそっと握った。でも結局口からは何も出て来はしなかったんだ。

 ただやっぱり肝心な時に強さを見せるのは女性のほうなんだろうね。俺の手をギュッと握り返した君は、まだ少し潤んだ瞳を向けて言ったんだ。

「バカね、これも冗談に決まってるじゃない。悔しかったからお返ししたんだよ。ほら、それよりもう直ぐ決勝の時間だから、準備しなきゃ」

 いくら俺が手の施し様のないバカだからって、それが君の精一杯の強がりだってことくらいは簡単に見破れるよ。だけど今はその気持ちに甘えようと考えたんだ。
 だっていくら俺がフォローしたつもりでも、君を慰めるには至らないんだからね。それに、俺が今出来る君を最大限労える行為は、これから始まるレースで懸命に走る姿を見せる事だけなんだ。
 だからレースに集中しよう。君の為だけに走るって、初めからそう決めていた事なんだから。

 その場で脱ぎ捨てたジャージとオーディオプレイヤーを君に渡す。そして君に向けて強く拳を握りしめて見せたんだ。気合十分だということを知らしめる様にね。
 するとその時、君が俺の体を引き寄せた。

「!」

 突然の事で一瞬何が起きたのか分からなかった。でも唇に感じた温かい感触で俺はそれを理解したんだ。
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