明日へ馳せる思い出のカケラ
「応援する私の方が緊張してきちゃったみたい」

 重ね合わせた唇を離してから、君は顔を真っ赤に染め上げてそう囁いた。
 でも恐らく君は傷ついた胸の内を紛らわせたかったんだろう。だから思い切ってこんな大胆な行為をしたんだ。もっともそうな動機を後付けしてね。

 ただ君の言葉に嘘がない事も伝わって来る。これから試合に臨む俺に変なシコリを残したくないというのも、君の本音なんだろうからさ。

 ただ少し大胆過ぎないか。確かに沈みかけた俺の気分は一変した。けどいくらこの場所が人目に付かないからって、キスをするにはあまりに不適当過ぎる。
 お蔭で俺の顔まで真っ赤に火照っちゃったよ。嬉し過ぎてね。

 俺は必死に照れを隠したつもりだった。でも溢れ出る胸の高鳴りは、君にまで伝わっちゃったんだよね。だってそれが俺にとって、何よりの勇気注入になったのだから。

 スタートラインに立った時ですら、まだ君の唇の甘い感触が残り続けていた。

 不思議だね。今まで何度も重ねてきた唇なのに、今回のキスはそれらとはまったく印象が違ったんだ。
 まるで君じゃない、別の誰かとしたんじゃないかって錯覚するほどにね。

 でも俺はそんな口元を軽く指で摩りながら、もう次の瞬間には始まるであろうレースに向けて気合を高めていったんだ。君の為に全力で駆け抜ける。ただそれだけを誓って。

 しかしそんなたかぶる俺の胸の内と相反する様に、猛烈な風がグラウンドを駆け抜けていった。

 そして1万メートル走のスタートを告げるピストルの音が鳴るとほぼ同時に、誰も予想だにしない【最初の】アクシデントが発生したんだった――。
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