明日へ馳せる思い出のカケラ
第6話 風立つ競技会
 当初は2段階スタートを予定していた1万メートル走だったけど、出場選手数に変更があったからなのか、開始直前に一斉スタートへの変更がアナウンスされた。

 確かに競技の運営上、それは事前に決められた手順だったのかも知れない。
 ただ軽く見積もっても四十人程度の選手が居るはずなんだ。そしてそんな選手達が一堂に揃ってスタートラインに詰め掛かけている。
 こんな乱雑な状況で正しいスタートが行えるんだろうか。直感としてそう思った俺は、身がすくむほどの不安を抱かずにはいられなかった。

 選手同士の間隔は息苦しさを覚えるほど狭い。まるですし詰めにされた満員電車の様だ。
 でもこの場にいる選手みんなの心情は、純粋にも前向きなんだよね。一歩でも、いや半歩でも前からスタートを切りたい。馳せる気持ちが姿勢に現れ、前へ前へと進まずにはいられないんだ。

 そんな選手達に対して係りの者達が落ち着くよう働き掛ける。けどスタート直前のこの時間帯に、それを促したところで聞く者なんかいるはずがない。いや、ここに来て滾りきった感情を抑えろって言う方に無理があるんだ。

 初めの予定通り、2段階スタートならばこんなに混乱はしなかっただろう。
 だってこの混乱状態の主因は、箱根を走るほどの精鋭達が、俺の様な低レベルの選手と同スタートする事を嫌った結果なんだからね。

 彼らは箱根という勝負の場を控え、その調整という意味合いでこの大会に参加している。
 本番さながら他校の有力選手と競う真剣なせめぎ合いなんて、なかなか出来るモンじゃないからね。貴重な練習の一環なんだろう。
 ただ彼らにしてみれば不運な事に、このレースには招かざる者が多数含まれていたんだ。俺みたいな実力に劣る選手がたくさんね。

 正直な所、彼らから見れば俺らなんて邪魔な存在でしかないんだろう。コースを塞ぐ障害物。まさにそんな感覚なのかも知れない。でもだからこそ、精鋭である彼らは少しでも前方に陣取り、支障になりえる存在を置き去りにしてスタートしたいんだ。

 どうせ勝負になんかなりっこない。
 君の為に全力で走るって誓った俺だけど、レースについては早々に見限っていた。さすがに箱根を激走するほどの勇士達を目の前にして、少し気が引けていたんだろうね。
 それに俺にとって重要なのは結果じゃない。精一杯頑張り抜く事なんだ。この日まで努力してきた成果を自分なりに出し切る。それこそが君への報いに繋がるはずなんだからね。

 けど実力の見合わない選手達が皆、俺と同じ様に勝負を諦めているとは限らなかった。そこには空気の読めない勘違い野郎どもが幾人も群がっていたんだ。
 奴らは自分の力量を考えもせず、箱根の勇士達に割って入りスタートラインを目指した。そしてそんな奴らを勇士達がさらに掻き分けて前へと身を乗り出したんだ。

 集団の入り乱れっぷりは誰の目にも明らかだった。こんな状態でまともなスタートなんか出来るわけがない。今からでも2段階スタートに切り替えるべきなんじゃないのか。
 集団の最後方に構えていた俺は、そんな寒気立つ不安で身を強張らせた。

 しかし大会を仕切る審判員達に変化は見られない。彼らは混乱するこの状況を黙殺するがの如く蔑ろにし、怠慢にもこのままスタートさせるつもりなんだ。
 いや、スタートさせる事しか出来ないんだろう、今の彼らにはね。だって審判員達の表情を見る限り、選手である俺達よりも緊張する素振りが見え隠れするんだからさ。
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