明日へ馳せる思い出のカケラ
 スタート時刻までもう1分を切っている。
 俺は自分の腕にはめた時計の表示を時刻からストップウォッチに変更させた。
 ただそれと同時に俺の後方から猛烈な突風が吹き抜けたんだ。

 立っているのが困難なほどの強い風。俺はそんな風にあおられ体勢を崩す。
 それでもどうにか足を踏ん張り傾いた体を支え直した。しかし突風が巻き上げた大量の砂埃が、同時に視界をひどく霞ませてしまったんだ。

 とてもじゃないけど目なんか開けていられない。
 コンタクトレンズをしていた俺は、条件反射的に目を閉じて砂埃が収まるのを耐え忍んだ。――が、その瞬間、

『パン!』

 俺の耳に乾いたピストルの爆発音が響く。まさしくそれは1万メートル走のスタートを告げる合図だった。
 でも目が開けられない俺はスタートを切ることが出来ない。

「フザケんなよっ! いくら時間ちょうどだからって、こんな最悪のタイミングでスタートする事ないだろっ!」

 俺はそう不快感を募らせつつも、薄目を開けて走り出した。
 けどそんな状態の俺の目に何かが映り込んだんだ。素早くグラウンドを横切る、白く小さい影の塊をね。

「なんだ?」

 砂埃の舞う中で薄目を開き、かろうじて前方を見ていた俺にとって、それは良く理解出来ない存在だった。
 でもその時、すでに事態は深刻な状況に陥っていたんだ。

 今か今かとスタートラインに押し寄せていた選手達。
 その中には俺と同様にコンタクトレンズを装着していた者も少なくないだろう。そして突風に吹き付けられた砂埃を避けるために、そんな選手達も目を塞いだはずなんだ。
 それはコンタクト常用者にさだめられた不可避の行為なんだからね。

 ただその結果、彼らは体を強張らせざるを得なかった。
 突然目が開けられなくなると、人の体は自然と硬くなるモンなんだ。でもそこで最悪なことに、スタートの合図が発せられてしまった。

 長い陸上生活を営んできた者にしてみれば、たとえ目が開けられなくともスタートが告げられれば自然と足は動くもの。
 でも一旦強張った体が瞬間的な動作の遅れを誘発してしまう。そしてその一瞬の遅れが、一斉スタートのリズムをバラバラに狂わせてしまったんだ。

 ただでさえ選手同士の間隔はゼロに等しいほど密集していた。その状況で動き出しに僅かであっても差が出るというのは致命的な事なんだ。

 足を踏まれる者や、強く体を接触させる者が多発しただろう。それだけでも大変な事態だったはずだ。でもさらにそこで白い影という災難が加わってしまった。

 白い影の正体。それは全身を真っ白い毛で覆った一匹の【猫】だった。なぜそんな猫が試合会場のトラックにいたのかは分からない。
 ただ走り去る姿からして、野良猫なんだろうとは想像がつく。

 強風にあおられたからなのか。それともスタートの合図であるピストルの音に驚いたからなのだろうか。
 ただ確実に言えるのは、その猫がスタート直後の選手集団の前を横切ったという事実なんだよね。

 人っていうのは不思議な事に、目の前に何かが飛び出して来たら無意識にも自分自身にストップを掛けるものなんだ。
 そしてその結果、後方から詰め寄る選手に押され転倒する者が連鎖的に続出してしまったんだ。
< 41 / 173 >

この作品をシェア

pagetop