図書恋ーー返却期限なしの恋ーー
カサリ、とノートが捲る音が静かな室内に響く。半分開けたままの窓からは、五月の柔らかな風が入ってきてベージュ色のカーテンを揺らす。校庭ではどこかのクラスが体育をしているようで、準備運動がはじまっている。
その光景を無意識に眺めていると、小林がわたしを見た。
「二十六で処女か……。どうしてだろうな」
しみじみと言わないでほしい。もともと挫けていた気もちが粉々に粉砕しそうだ。
「亜沙子、普通にかわいいのにな。理想が高いのか?」
「……知りません」
サラリと言われた可愛い、と言う言葉に心が波立つ。これだからリア充は手に負えない。今日は晴れですね、と言った程度の重みしかない言葉を真に受けてはいけない、と自分に言い聞かせる。
「やっぱ本ばっか読んでるからだよ。もっと現実の男を見ろよ」
「本題に入らないならもうやめていいですか?」
「本題」が曲者なのに、こうやって興味半分に分析されるのも嫌だ。ああもう、その額にあるガーゼ、それが黄門様の印籠みたいにわたしに突きつけられてなかったら、すぐにでもこの男を追い返してやるのに。
わかったわかった、と小林はシャーペンをカチカチと押す。
「じゃ、まずは。やっぱ亜沙子みたいな奴は、ハジメテのシチュエーションにこだわるのか?」
わたしみたいなって、それどういう括り? 腕を組んで威嚇するように小林を睨むけど、当の本人は全く気にせず続ける。
「海の見えるリゾートホテルとか、都心の夜景が見えるシティホテルとか、そういうのが憧れなのか?」
「そんなの小説のネタになります?」
やっぱり答えたくない。恥ずかしいしいたたまれないし、なんとか答え以外のことを口にしようと聞き返した。
「ああいう小説って、もっと直接的な部分ばっかり気にしてるんじゃないですか?」
わたしもなんとか無表情な、仕事用っぽい顔ができていますように。いちいち物慣れない自分が恥ずかしい。
「もちろん、『直接的な』部分も大事だよ」
小林は楽しむようにあえて同じ言い回しを使ってくる。片方の唇を引き上げて、
「じゃあ質問を変えようか? もっと『直接的』な方の――」
「やっぱりいいです」
大きな声で話を遮ると、羞恥に耐えきれず目をそらした。視線の先に、ウサギや猫の形をした色紙が掲示板に貼りついていて泣きたくなってくる。図書室ではしずかにしよう、と女の子が言ってる掲示物。こんなに健やかな空間で、いったいなんの話をしてるの?
「恥ずかしがるなよ」
無意識に丸め込んでいた手に手を重ねられた。
「俺言ったよな? 亜沙子に興味があるって。全部小説のネタになるかわかんないけど、単純に、亜沙子のことが知りたい」
口説き文句ともとれる言葉を、口説いてるみたいに真剣な眼差しで言われる。大半の女性ならこれだけで落ちてしまいそうだ。
恥ずかしさと困惑と、自分と、それともちろん小林に対する苛立ちに赤くなった頬を横に向けたまま逡巡する。重なる手が熱い。握られてるわけじゃなくて、ぽんとただ置かれているだけだけど。そっと抜こうとすると、咎めるように手を握られた。
「あの、離してください」
「離したら教えてくれる?」
もともとそのつもりだったはずなのに。まったく覚悟のないわたしに合わせるように、改めて小林は尋ねてきた。その目は焦れても揶揄ってもない、至極真面目なもの、のように見えた。
もしかしたら、わたしが子どもに昆虫の本はどこですか? と聞かれてそれは四類の棚にあるよ、と答えるように、官能小説家の男はロスト・ヴァージンに関する質問をしてもなんとも思わないのかもしれない。イカガワシイ単語も業界用語のようなもの?
わからない。でもこの場を乗り切るために、そういうものだと思うことにした。マンモグラフィー検査のために医者に胸を見られることは恥ずかしいことじゃない。その理屈。よね?
「……わたしは、特別な場所じゃなくてもいいです。というか、ふつうに家がいいです」
「なんで?」
「だってそんな、どこになにが置いてあるのかわかんないところ、恐いじゃないですか」
わたしだって考えたことくらいある。いつか恋人ができて、そういうこと、を、することを。
はじめての時は、きっと緊張してるだろうから、リラックスできる場所が良い。わたしの家だと一人になった時に記憶に攻撃されてベッドを使えなくなりそうなので、彼の部屋がいい。で、する前に、お互い自分の家でお風呂に入ってくる。
彼の家のシャワーを使うのは嫌だ。自分が使ったことのないシャンプーや使う予定のない髭剃りに囲まれるのかと思うと、それだけで落ち着かないだろうから。それに、ひとりで待ってる間なにをすればいい? 瞑想でもしてる? なんてことない顔をしてスマホをいじってる自分なんて、想像もできない。
そんなことを細々と考えていると、
「現実的に見えて、非現実的だな」
小林はアッサリ断じた。
「なんだよお互いの家で風呂って。会議じゃないんだから、何日の何時何分にスタートですなんてならないんだぞ」
「こ、困りますそんなの。事前の準備ってものが」
おもわずムキになって反論すると、小林は馬鹿にしたようにふっと笑う。
「へぇ。なにを『準備』してくれんの」
含むような言い方に、かあっと顔が熱くなる。
「そんなのじゃないです。ただ、こ、心構えっていうか」
わかってねぇな、と小林の目が前髪の間から重たく光る。
「慌てて恥ずかしがってるとこが燃えるんだよ。男を知らない、俺だけの女だって」
握られたままの手が熱い。振り切ろうとしても、絡みついた指がぎゅっと力を増して離さない。
話したら、手を離すって言わなかった?
っていうか、これって小説のネタ探しよね?
これじゃ、なんだか。
「亜沙子」
ガタリ。椅子から小林が立ち上がって、身を乗り出す。開いたままのノートが、小林のワイシャツにこすれて音をたてる。
「処女どころか、まともに男と付き合ったことないんじゃないの?」
赤くなっている頬がさらに熱をもつ。耐えきれず俯くと、繋いだままの手と目が合った。じわ、と掌が汗をかく。
「ってことは、俺がファーストキスか」
その言葉に固まり、同時に思い出した。ここで、なぜか、この男に。
「ち、がいます!」
反射的にそう言うと、小林は訝るように眉根を寄せた。
「彼氏はいないのにキスはしたのか? そんなふしだらな女なのか?」
その台詞、この男だけには言われたくない。
けれどあんな、揶揄う以上の意味のない接触をファーストキスだと思われるくらいならと思い、新歓のときのことを話した。この瞬間、あの一件は唇同士の接触事故ではなくキスという名前がついた。
それなのに、
「そんなのキスのうちに入るか」
眉間に皺を寄せたまま、小林はまたも断定した。
「ただの事故だ、肘と肘がぶつかったみたいなもん。そんなのいつまでも覚えてるんじゃねぇよ」
挙句になんだかイライラとした口調で言われた。わたしはすかさず反論する。
「だったらこの間のことも、ただの事故です。むしろ今の今まで忘れてました」
ついでに嘘も混ぜ込んで主張すると、小林は切れ長の目をすっと半分ほどに薄く細めた。視線が鋭さを帯びる。
「へぇ」
本能的な警鐘が鳴る。まずい、と思うのに、捕まれた手のせいで逃げることができない。
「それじゃ、俺が本当のキスを教えてやるよ」
ゆらりと顔が近づいてくる。だめだ、動け。心の命令に従って身を引こうとするのを押しとどめるように、もう片方の手が反対のこめかみと耳の辺りを掴む。
「逃げんな」
重たげな前髪の隙間から覗いた目が、不穏な光を帯びて近づく。
唇が重なった。
その光景を無意識に眺めていると、小林がわたしを見た。
「二十六で処女か……。どうしてだろうな」
しみじみと言わないでほしい。もともと挫けていた気もちが粉々に粉砕しそうだ。
「亜沙子、普通にかわいいのにな。理想が高いのか?」
「……知りません」
サラリと言われた可愛い、と言う言葉に心が波立つ。これだからリア充は手に負えない。今日は晴れですね、と言った程度の重みしかない言葉を真に受けてはいけない、と自分に言い聞かせる。
「やっぱ本ばっか読んでるからだよ。もっと現実の男を見ろよ」
「本題に入らないならもうやめていいですか?」
「本題」が曲者なのに、こうやって興味半分に分析されるのも嫌だ。ああもう、その額にあるガーゼ、それが黄門様の印籠みたいにわたしに突きつけられてなかったら、すぐにでもこの男を追い返してやるのに。
わかったわかった、と小林はシャーペンをカチカチと押す。
「じゃ、まずは。やっぱ亜沙子みたいな奴は、ハジメテのシチュエーションにこだわるのか?」
わたしみたいなって、それどういう括り? 腕を組んで威嚇するように小林を睨むけど、当の本人は全く気にせず続ける。
「海の見えるリゾートホテルとか、都心の夜景が見えるシティホテルとか、そういうのが憧れなのか?」
「そんなの小説のネタになります?」
やっぱり答えたくない。恥ずかしいしいたたまれないし、なんとか答え以外のことを口にしようと聞き返した。
「ああいう小説って、もっと直接的な部分ばっかり気にしてるんじゃないですか?」
わたしもなんとか無表情な、仕事用っぽい顔ができていますように。いちいち物慣れない自分が恥ずかしい。
「もちろん、『直接的な』部分も大事だよ」
小林は楽しむようにあえて同じ言い回しを使ってくる。片方の唇を引き上げて、
「じゃあ質問を変えようか? もっと『直接的』な方の――」
「やっぱりいいです」
大きな声で話を遮ると、羞恥に耐えきれず目をそらした。視線の先に、ウサギや猫の形をした色紙が掲示板に貼りついていて泣きたくなってくる。図書室ではしずかにしよう、と女の子が言ってる掲示物。こんなに健やかな空間で、いったいなんの話をしてるの?
「恥ずかしがるなよ」
無意識に丸め込んでいた手に手を重ねられた。
「俺言ったよな? 亜沙子に興味があるって。全部小説のネタになるかわかんないけど、単純に、亜沙子のことが知りたい」
口説き文句ともとれる言葉を、口説いてるみたいに真剣な眼差しで言われる。大半の女性ならこれだけで落ちてしまいそうだ。
恥ずかしさと困惑と、自分と、それともちろん小林に対する苛立ちに赤くなった頬を横に向けたまま逡巡する。重なる手が熱い。握られてるわけじゃなくて、ぽんとただ置かれているだけだけど。そっと抜こうとすると、咎めるように手を握られた。
「あの、離してください」
「離したら教えてくれる?」
もともとそのつもりだったはずなのに。まったく覚悟のないわたしに合わせるように、改めて小林は尋ねてきた。その目は焦れても揶揄ってもない、至極真面目なもの、のように見えた。
もしかしたら、わたしが子どもに昆虫の本はどこですか? と聞かれてそれは四類の棚にあるよ、と答えるように、官能小説家の男はロスト・ヴァージンに関する質問をしてもなんとも思わないのかもしれない。イカガワシイ単語も業界用語のようなもの?
わからない。でもこの場を乗り切るために、そういうものだと思うことにした。マンモグラフィー検査のために医者に胸を見られることは恥ずかしいことじゃない。その理屈。よね?
「……わたしは、特別な場所じゃなくてもいいです。というか、ふつうに家がいいです」
「なんで?」
「だってそんな、どこになにが置いてあるのかわかんないところ、恐いじゃないですか」
わたしだって考えたことくらいある。いつか恋人ができて、そういうこと、を、することを。
はじめての時は、きっと緊張してるだろうから、リラックスできる場所が良い。わたしの家だと一人になった時に記憶に攻撃されてベッドを使えなくなりそうなので、彼の部屋がいい。で、する前に、お互い自分の家でお風呂に入ってくる。
彼の家のシャワーを使うのは嫌だ。自分が使ったことのないシャンプーや使う予定のない髭剃りに囲まれるのかと思うと、それだけで落ち着かないだろうから。それに、ひとりで待ってる間なにをすればいい? 瞑想でもしてる? なんてことない顔をしてスマホをいじってる自分なんて、想像もできない。
そんなことを細々と考えていると、
「現実的に見えて、非現実的だな」
小林はアッサリ断じた。
「なんだよお互いの家で風呂って。会議じゃないんだから、何日の何時何分にスタートですなんてならないんだぞ」
「こ、困りますそんなの。事前の準備ってものが」
おもわずムキになって反論すると、小林は馬鹿にしたようにふっと笑う。
「へぇ。なにを『準備』してくれんの」
含むような言い方に、かあっと顔が熱くなる。
「そんなのじゃないです。ただ、こ、心構えっていうか」
わかってねぇな、と小林の目が前髪の間から重たく光る。
「慌てて恥ずかしがってるとこが燃えるんだよ。男を知らない、俺だけの女だって」
握られたままの手が熱い。振り切ろうとしても、絡みついた指がぎゅっと力を増して離さない。
話したら、手を離すって言わなかった?
っていうか、これって小説のネタ探しよね?
これじゃ、なんだか。
「亜沙子」
ガタリ。椅子から小林が立ち上がって、身を乗り出す。開いたままのノートが、小林のワイシャツにこすれて音をたてる。
「処女どころか、まともに男と付き合ったことないんじゃないの?」
赤くなっている頬がさらに熱をもつ。耐えきれず俯くと、繋いだままの手と目が合った。じわ、と掌が汗をかく。
「ってことは、俺がファーストキスか」
その言葉に固まり、同時に思い出した。ここで、なぜか、この男に。
「ち、がいます!」
反射的にそう言うと、小林は訝るように眉根を寄せた。
「彼氏はいないのにキスはしたのか? そんなふしだらな女なのか?」
その台詞、この男だけには言われたくない。
けれどあんな、揶揄う以上の意味のない接触をファーストキスだと思われるくらいならと思い、新歓のときのことを話した。この瞬間、あの一件は唇同士の接触事故ではなくキスという名前がついた。
それなのに、
「そんなのキスのうちに入るか」
眉間に皺を寄せたまま、小林はまたも断定した。
「ただの事故だ、肘と肘がぶつかったみたいなもん。そんなのいつまでも覚えてるんじゃねぇよ」
挙句になんだかイライラとした口調で言われた。わたしはすかさず反論する。
「だったらこの間のことも、ただの事故です。むしろ今の今まで忘れてました」
ついでに嘘も混ぜ込んで主張すると、小林は切れ長の目をすっと半分ほどに薄く細めた。視線が鋭さを帯びる。
「へぇ」
本能的な警鐘が鳴る。まずい、と思うのに、捕まれた手のせいで逃げることができない。
「それじゃ、俺が本当のキスを教えてやるよ」
ゆらりと顔が近づいてくる。だめだ、動け。心の命令に従って身を引こうとするのを押しとどめるように、もう片方の手が反対のこめかみと耳の辺りを掴む。
「逃げんな」
重たげな前髪の隙間から覗いた目が、不穏な光を帯びて近づく。
唇が重なった。