図書恋ーー返却期限なしの恋ーー
油とスープの匂いが蔓延して室内を湿らせている。だからなのか、置いてあるメニューはテラリと光っている。 音を立てて食器を回収していく店員が、カウンターに食器をぶつけるように置く。お湯が沸く音と、大鍋がガチャガチャ擦れる音。みそふたぁつ固麺大盛いちぃ。店員の野太い声と、応じるいくつかの低い声。
「ほらここ」
座れ、というように小林がカウンターに滑りこんで、隣をポンと叩く。ぼうっと突っ立ていたわたしはハッとして、ぎこちなく頷いた。カウンターの前から店員がドン、ドンと水の入ったコップを置く。衝撃で水がテーブルに跳ねる。
「ここうまいんだぜ」
そうですか、と口の中で答えて周りのお客を見る。わたし以外全員男。ひとりの人ばっか。カウンターと真後ろの壁が三十センチくらいの細長い油っぽい店内で、一心にラーメンをすすっている。
デート、なんだよね? たしか。
「あんま来ない? こういうとこ」
小さく顎を引いて、そうですね、と返す。ひとりでラーメン屋に行く女性って最近は珍しくないだろうけど、行くとしてももう少し入りやすい、清潔な感じのところじゃないかな。カウンターの端にぐしゃっと置かれたダスターも、なんだか薄汚れてるし。
「味はたしかだから、食ってみ」
そう言う小林の顔はなんだか得意げで、分厚いページの本をこれ一日で読んだ、と自慢する子どものようだった。
カウンターって、隣との距離がけっこう近い。一日の終わりで、少しだけ生えてきた小林の顎に散る髭。無造作に置かれた手の指先が長い。そんなものが、わたしを落ち着かなくさせる。適当に相槌を打って、そっと視線をずらした。
「まちどーさまでっす」
店員が両手に持っているラーメンが、わたしの前に置かれる。ふわんと湯気が揺れて、薄茶色のスープから良い匂いがした。添えられた半熟卵の真ん中が、オレンジ色にとろりと溶けている。急にお腹が空いてきた。
「どう? うまいだろ?」
まだ食べてないってば。ほんとに子どもみたいだこの人。
ずず、とひと口すする。あ、おいし。顔を上げて、こっちを覗きこんでいる男に答えた。
「おいしいですね」
「だろ?」
小林が嬉しそうに笑う。やっぱり得意げ。
「俺さ、ラーメン好きで色々食ってんだけど、ここダントツ。仕事終わりよく来るんだよ」
「小林先生って家どのへんなんですか」
「駅向こうの、ってあのなぁ」
小林が苦笑する。
「ガッコじゃねーんだから、先生はやめろよ」
それもそうか、と思い、小林さん、と言い直すと、
「哲って、呼んでみ」
少しだけこちらに顔を寄せた小林が、誘うようにそう囁いた。わたしは思わず身をひいて、首を横に振る。
「やです、そんな馴れ馴れしい」
「俺だって亜沙子って呼ぶじゃん」
それが馴れ馴れしいって暗に言ってんの、わかってないんだろうか。
「いいじゃん、ここ奢ってやったろ?」
自動券売機で有無を言わさず二枚買った食券のことを指して、小林は言う。よくわからない理屈だ。でも小林に近づかれると、未だ小林の額に貼ってある湿布も一緒にずずいと寄ってこられて、否とは言えなくなる。
わかりましたよ、と小さく頷く。小林は満足げに笑って、呼ばれるのを待つようにこちらをじっと見る。わたしの視線がラーメンの湯気のようにふらりと泳ぐ。
なんだか、無性に恥ずかしい。
「――哲」
てつ。二文字の言葉はわたしの耳から心臓に直結して、鼓動をぐっと速めた。
なんだこれ。恥ずかしい。顔見れない。
俯く私の箸を持つ右手を、隣から大きな手が握る。
「照れてんの」
うるさい。
低い笑い声が、ラーメンの匂いの向こうから漂う。ごちそーさん。誰かの声と、店員の間延びした挨拶。
「亜沙子って、かわいいな」
大きな手が、弄ぶようにわたしの指先を握る。まただ、かわいいって。なんて簡単に言ってくれるんだろう。
無責任で薄っぺらい言葉のはずなのに、免疫がないって恐ろしい。ものすごく緊張してしまう。
哲の手の中でわたしの指がぐったりしている。速い鼓動に埋もれて、ラーメンの味はわからなくなってしまった。
「ほらここ」
座れ、というように小林がカウンターに滑りこんで、隣をポンと叩く。ぼうっと突っ立ていたわたしはハッとして、ぎこちなく頷いた。カウンターの前から店員がドン、ドンと水の入ったコップを置く。衝撃で水がテーブルに跳ねる。
「ここうまいんだぜ」
そうですか、と口の中で答えて周りのお客を見る。わたし以外全員男。ひとりの人ばっか。カウンターと真後ろの壁が三十センチくらいの細長い油っぽい店内で、一心にラーメンをすすっている。
デート、なんだよね? たしか。
「あんま来ない? こういうとこ」
小さく顎を引いて、そうですね、と返す。ひとりでラーメン屋に行く女性って最近は珍しくないだろうけど、行くとしてももう少し入りやすい、清潔な感じのところじゃないかな。カウンターの端にぐしゃっと置かれたダスターも、なんだか薄汚れてるし。
「味はたしかだから、食ってみ」
そう言う小林の顔はなんだか得意げで、分厚いページの本をこれ一日で読んだ、と自慢する子どものようだった。
カウンターって、隣との距離がけっこう近い。一日の終わりで、少しだけ生えてきた小林の顎に散る髭。無造作に置かれた手の指先が長い。そんなものが、わたしを落ち着かなくさせる。適当に相槌を打って、そっと視線をずらした。
「まちどーさまでっす」
店員が両手に持っているラーメンが、わたしの前に置かれる。ふわんと湯気が揺れて、薄茶色のスープから良い匂いがした。添えられた半熟卵の真ん中が、オレンジ色にとろりと溶けている。急にお腹が空いてきた。
「どう? うまいだろ?」
まだ食べてないってば。ほんとに子どもみたいだこの人。
ずず、とひと口すする。あ、おいし。顔を上げて、こっちを覗きこんでいる男に答えた。
「おいしいですね」
「だろ?」
小林が嬉しそうに笑う。やっぱり得意げ。
「俺さ、ラーメン好きで色々食ってんだけど、ここダントツ。仕事終わりよく来るんだよ」
「小林先生って家どのへんなんですか」
「駅向こうの、ってあのなぁ」
小林が苦笑する。
「ガッコじゃねーんだから、先生はやめろよ」
それもそうか、と思い、小林さん、と言い直すと、
「哲って、呼んでみ」
少しだけこちらに顔を寄せた小林が、誘うようにそう囁いた。わたしは思わず身をひいて、首を横に振る。
「やです、そんな馴れ馴れしい」
「俺だって亜沙子って呼ぶじゃん」
それが馴れ馴れしいって暗に言ってんの、わかってないんだろうか。
「いいじゃん、ここ奢ってやったろ?」
自動券売機で有無を言わさず二枚買った食券のことを指して、小林は言う。よくわからない理屈だ。でも小林に近づかれると、未だ小林の額に貼ってある湿布も一緒にずずいと寄ってこられて、否とは言えなくなる。
わかりましたよ、と小さく頷く。小林は満足げに笑って、呼ばれるのを待つようにこちらをじっと見る。わたしの視線がラーメンの湯気のようにふらりと泳ぐ。
なんだか、無性に恥ずかしい。
「――哲」
てつ。二文字の言葉はわたしの耳から心臓に直結して、鼓動をぐっと速めた。
なんだこれ。恥ずかしい。顔見れない。
俯く私の箸を持つ右手を、隣から大きな手が握る。
「照れてんの」
うるさい。
低い笑い声が、ラーメンの匂いの向こうから漂う。ごちそーさん。誰かの声と、店員の間延びした挨拶。
「亜沙子って、かわいいな」
大きな手が、弄ぶようにわたしの指先を握る。まただ、かわいいって。なんて簡単に言ってくれるんだろう。
無責任で薄っぺらい言葉のはずなのに、免疫がないって恐ろしい。ものすごく緊張してしまう。
哲の手の中でわたしの指がぐったりしている。速い鼓動に埋もれて、ラーメンの味はわからなくなってしまった。