図書恋ーー返却期限なしの恋ーー
「なんだ、べつにふつうじゃん」
玄関前で二分ほど待ってもらって、干しっぱなしの服と下着はなんとか回収した。だけどそれ以外は朝のままだ。スマホの充電器が変なところに転がってる。読みかけの本と読む予定の本を積んだ山が雪崩を起こして、そのままベッド脇のクッションへと倒れこんでいた。わたしはその一角を直しながら、あんまジロジロ見ないでください、と言う。
「どうぞこれ使って、そのへん座ってください。なに飲みます、お茶、あコーヒーでしたか」
「いーよ慌てなくて」
座布団代わりに差し出した薄いクッションを抱えて、哲はベッドを背もたれに座る。恋人の部屋にいるかのような寛いだ雰囲気は、わたしを落ち着かなくさせた。逃げるようにキッチンへと向かう。
「ミルクと砂糖は」
「いー」
イメージ通りのお答え。わたしはといえば普段コーヒーを飲まない。たしかお土産にもらったやつがこの棚に、と引き戸をバンバン開けていく。
「だから慌てんなって」
笑いを含んだ声が聞こえる。頬が熱くなるのがわかった。言い返したいけどなにも思いつかない。こういうとき、悔しいけど自分の経験値の無さを実感する。
お、と哲が楽しそうな声をあげる。
「ベッドの下になんかあんぞぉ。エロ本か?」
「なわけないでしょう」
エロ小説家の発想には着いてけない。振り返ると、哲は喜々としてベッド下に腕を潜り込ませていた。
絵本の下から引っ張りだされる四角い本。手にとって見た哲は、驚いたように僅かに目を見開いた。口元に広がっていた笑みが消える。
「これ」
色あせた表紙。ボロボロになって、ページを結ぶ糸が少しほつれている。捲るページに柔らかさがあるのは、数えきれないくらい読んできたからだ。
絵本の「さとしくんとよるがっこう」。表紙には優しい色の文字でそう書いてある。
「……ときどき寝る前に読んでるんです」
問うように顔を上げる哲に、口を開く。
「子どもの頃、転校するたびに新しい環境になじめなくて」
友だち作りに苦労していた子ども時代。だけど絵本に、「さとし君」に励まされたこと。そんなことを、ぽろぽろと話していた。
馬鹿にされるかもしれない、とはふしぎと思わなかった。デリカシーはないし呆れるほど強引なひとだけど、子どもの心を傷つける人じゃない。それだけは、信じてもいいような気がしていた。
「だから学校司書になったのか?」
ゆっくりと頷く。
「今度はわたしが、子どもたちに本の楽しさを伝えられたらいいなって」
今のわたしがいるのは、さとし君のおかげだ。
本のなかのキャラクターなのだけど。わたしの初恋は、さとし君なのかもしれない。ふいにそんなことに気づいて、少しおかしくなった。無意識に頬が緩んでいた。
「……亜沙子が」
絵本に目を落としたまま、哲が口を開く。
「今まで彼氏いなかった理由、わかった気がする」
「え。え?」
おだやかな空気を感じていたのはわたしだけだったのか。唐突に言われた言葉に目を見開く。
ものすごい失礼な台詞だ。それなのに顔を上げた哲は、至極真面目な顔をしてる。
「純粋すぎ。きれいすぎて、手に負えねぇ」
「――――」
「そう思っちゃったんじゃねぇの。周りのオトコどもは」
トン、と長い指が絵本を叩く。哲の言葉をどう受け止めたらいいのかわからない。手に負えないって、なにそれ。褒められてる、のとはちがう気がする。
哲がふっと笑って手を伸ばす。猫でも呼ぶみたいに、指先が手招きする。唇を結んで、その合図から目をそらした。
「あさこ」
やっぱり猫でも呼んでるみたいだ。変に甘さを帯びた声。やめてほしい。
そんな、恋人の機嫌を取る彼氏のような声。
哲は立ち上がると、目を合わさないでいるわたしの前まで来た。わたしの両脇のシンクに手を着いて、気付けば体が触れ合う寸前の距離にいた。
「ちょっと、離れてください」
「やだね」
焦るわたしにかまわず、哲はいつもの顔で言う。蛍光灯の灯りが、哲の頬を不自然に白く照らす。哲の腕とわたしの長袖のブラウスが擦れている。
近い。
「かお真っ赤」
憎たらしさが、平常心を取り戻すきっかけになってなくて、腹立つ。
一方で思う。もうべつに、このくらいで大人はドキドキしないんだろうか。わたしに恋愛経験がないから、オタオタするだけなんだろうか。
だから哲からすると、興味深い生き物、みたいに見えるんだろうか。
哲片方の手がゆらりと伸びて、そのまま頬を包んだ。渇いた長い指先は意外なほど熱くて、ビクリと背中が揺れる。
このひと、定期的にセクハラしないと死んじゃう病なの? 心の中でそう毒づいても、鼓動は速いまま。
「俺はいいと思うよ、亜沙子の純粋できれいなとこ。すぐ真っ赤になるのも、俺が触るとちょっと怯えるかんじも」
哲がにやり、と笑う。後ろには、わたしの部屋のテレビや本棚や写真立てがいつもの顔で並んでいる。
ああもう、頭おかしくなりそう。
「もっと触りたくなる」
頬から滑った哲の手が、わたしの背を抱えた。哲の胸板が、鼻先に押し付けられる。背中に回った大きな手が、わたしの頭を覆う。抱きしめられてる、と理解するのに数秒かかった。
ドドドド、と鼓動が耳元で鳴る。本当に緊張するとき、耳の中から心臓の音が聞こえてくるのってなぜだろう。パニックになった頭の片隅で、そんなことを考える。
「こば」
やし先生、と続けそうになって、まるで咎めるように抱く腕に力がこもった。
「哲、だ。言ってみ」
低い、声というより温度の固まりが、耳に触れる。なにも考えられない。誘導されるように、恐る恐る口を開いた。
「……てつ?」
室内に、頼りなく震えた声が漂う。
正解だ、とでもいうように、哲の片手がわたしの髪の下に指を潜らせて、頭皮を撫でた。それだけのことがなぜか、腰から痺れるような感覚をもたらした。
「初デートでラーメン屋なんて、俺もはじめてだったよ」
耳元で哲が囁く。
「でも亜沙子とは、洒落たレストランよりも、いつも俺がうまいと思ってるもんを一緒に食いたかったんだ」
言葉が耳から零れて落ちる。意味を理解する余裕がない。頬にあたる哲の胸が熱かった。これが人間の温度。自分とはちがう服の匂いにつつまれて、頭がくらりと揺れる。
ちょっと待って、もう待って、許容オーバー。
「亜沙子は自炊する人?」
無意識に頷いていた。緊張でかすれた吐息が、哲の胸に触れる。頭皮を触る指の数が増えて、もうこれ以上されたら死んでしまう気がした。
それなのに腕を振りほどけない。
「それじゃ、次は俺んち来てよ。なんか作って」
甘えるように哲が言う。この態勢でその台詞って、まるで恋人同士だ。
次ってなに。哲はどう思ってるの。
それとも、これも全部、小説のネタの為なんだろうか。この自分の反応一つ一つが、哲にとっては仕事の為。
さっきは納得できたのに。なぜか今は、心の奥がすぅっと冷たくなった気がした。
玄関前で二分ほど待ってもらって、干しっぱなしの服と下着はなんとか回収した。だけどそれ以外は朝のままだ。スマホの充電器が変なところに転がってる。読みかけの本と読む予定の本を積んだ山が雪崩を起こして、そのままベッド脇のクッションへと倒れこんでいた。わたしはその一角を直しながら、あんまジロジロ見ないでください、と言う。
「どうぞこれ使って、そのへん座ってください。なに飲みます、お茶、あコーヒーでしたか」
「いーよ慌てなくて」
座布団代わりに差し出した薄いクッションを抱えて、哲はベッドを背もたれに座る。恋人の部屋にいるかのような寛いだ雰囲気は、わたしを落ち着かなくさせた。逃げるようにキッチンへと向かう。
「ミルクと砂糖は」
「いー」
イメージ通りのお答え。わたしはといえば普段コーヒーを飲まない。たしかお土産にもらったやつがこの棚に、と引き戸をバンバン開けていく。
「だから慌てんなって」
笑いを含んだ声が聞こえる。頬が熱くなるのがわかった。言い返したいけどなにも思いつかない。こういうとき、悔しいけど自分の経験値の無さを実感する。
お、と哲が楽しそうな声をあげる。
「ベッドの下になんかあんぞぉ。エロ本か?」
「なわけないでしょう」
エロ小説家の発想には着いてけない。振り返ると、哲は喜々としてベッド下に腕を潜り込ませていた。
絵本の下から引っ張りだされる四角い本。手にとって見た哲は、驚いたように僅かに目を見開いた。口元に広がっていた笑みが消える。
「これ」
色あせた表紙。ボロボロになって、ページを結ぶ糸が少しほつれている。捲るページに柔らかさがあるのは、数えきれないくらい読んできたからだ。
絵本の「さとしくんとよるがっこう」。表紙には優しい色の文字でそう書いてある。
「……ときどき寝る前に読んでるんです」
問うように顔を上げる哲に、口を開く。
「子どもの頃、転校するたびに新しい環境になじめなくて」
友だち作りに苦労していた子ども時代。だけど絵本に、「さとし君」に励まされたこと。そんなことを、ぽろぽろと話していた。
馬鹿にされるかもしれない、とはふしぎと思わなかった。デリカシーはないし呆れるほど強引なひとだけど、子どもの心を傷つける人じゃない。それだけは、信じてもいいような気がしていた。
「だから学校司書になったのか?」
ゆっくりと頷く。
「今度はわたしが、子どもたちに本の楽しさを伝えられたらいいなって」
今のわたしがいるのは、さとし君のおかげだ。
本のなかのキャラクターなのだけど。わたしの初恋は、さとし君なのかもしれない。ふいにそんなことに気づいて、少しおかしくなった。無意識に頬が緩んでいた。
「……亜沙子が」
絵本に目を落としたまま、哲が口を開く。
「今まで彼氏いなかった理由、わかった気がする」
「え。え?」
おだやかな空気を感じていたのはわたしだけだったのか。唐突に言われた言葉に目を見開く。
ものすごい失礼な台詞だ。それなのに顔を上げた哲は、至極真面目な顔をしてる。
「純粋すぎ。きれいすぎて、手に負えねぇ」
「――――」
「そう思っちゃったんじゃねぇの。周りのオトコどもは」
トン、と長い指が絵本を叩く。哲の言葉をどう受け止めたらいいのかわからない。手に負えないって、なにそれ。褒められてる、のとはちがう気がする。
哲がふっと笑って手を伸ばす。猫でも呼ぶみたいに、指先が手招きする。唇を結んで、その合図から目をそらした。
「あさこ」
やっぱり猫でも呼んでるみたいだ。変に甘さを帯びた声。やめてほしい。
そんな、恋人の機嫌を取る彼氏のような声。
哲は立ち上がると、目を合わさないでいるわたしの前まで来た。わたしの両脇のシンクに手を着いて、気付けば体が触れ合う寸前の距離にいた。
「ちょっと、離れてください」
「やだね」
焦るわたしにかまわず、哲はいつもの顔で言う。蛍光灯の灯りが、哲の頬を不自然に白く照らす。哲の腕とわたしの長袖のブラウスが擦れている。
近い。
「かお真っ赤」
憎たらしさが、平常心を取り戻すきっかけになってなくて、腹立つ。
一方で思う。もうべつに、このくらいで大人はドキドキしないんだろうか。わたしに恋愛経験がないから、オタオタするだけなんだろうか。
だから哲からすると、興味深い生き物、みたいに見えるんだろうか。
哲片方の手がゆらりと伸びて、そのまま頬を包んだ。渇いた長い指先は意外なほど熱くて、ビクリと背中が揺れる。
このひと、定期的にセクハラしないと死んじゃう病なの? 心の中でそう毒づいても、鼓動は速いまま。
「俺はいいと思うよ、亜沙子の純粋できれいなとこ。すぐ真っ赤になるのも、俺が触るとちょっと怯えるかんじも」
哲がにやり、と笑う。後ろには、わたしの部屋のテレビや本棚や写真立てがいつもの顔で並んでいる。
ああもう、頭おかしくなりそう。
「もっと触りたくなる」
頬から滑った哲の手が、わたしの背を抱えた。哲の胸板が、鼻先に押し付けられる。背中に回った大きな手が、わたしの頭を覆う。抱きしめられてる、と理解するのに数秒かかった。
ドドドド、と鼓動が耳元で鳴る。本当に緊張するとき、耳の中から心臓の音が聞こえてくるのってなぜだろう。パニックになった頭の片隅で、そんなことを考える。
「こば」
やし先生、と続けそうになって、まるで咎めるように抱く腕に力がこもった。
「哲、だ。言ってみ」
低い、声というより温度の固まりが、耳に触れる。なにも考えられない。誘導されるように、恐る恐る口を開いた。
「……てつ?」
室内に、頼りなく震えた声が漂う。
正解だ、とでもいうように、哲の片手がわたしの髪の下に指を潜らせて、頭皮を撫でた。それだけのことがなぜか、腰から痺れるような感覚をもたらした。
「初デートでラーメン屋なんて、俺もはじめてだったよ」
耳元で哲が囁く。
「でも亜沙子とは、洒落たレストランよりも、いつも俺がうまいと思ってるもんを一緒に食いたかったんだ」
言葉が耳から零れて落ちる。意味を理解する余裕がない。頬にあたる哲の胸が熱かった。これが人間の温度。自分とはちがう服の匂いにつつまれて、頭がくらりと揺れる。
ちょっと待って、もう待って、許容オーバー。
「亜沙子は自炊する人?」
無意識に頷いていた。緊張でかすれた吐息が、哲の胸に触れる。頭皮を触る指の数が増えて、もうこれ以上されたら死んでしまう気がした。
それなのに腕を振りほどけない。
「それじゃ、次は俺んち来てよ。なんか作って」
甘えるように哲が言う。この態勢でその台詞って、まるで恋人同士だ。
次ってなに。哲はどう思ってるの。
それとも、これも全部、小説のネタの為なんだろうか。この自分の反応一つ一つが、哲にとっては仕事の為。
さっきは納得できたのに。なぜか今は、心の奥がすぅっと冷たくなった気がした。