図書恋ーー返却期限なしの恋ーー
 できた。

 鍋の火を止めて、後ろを振り返る。口を開きかけて、止めた。小さく息を吐く。

 やっぱり疲れてるんじゃん。

 哲はノートパソコンに突っ伏すように眠っていた。近づいてゆっくりと覗きこむ。キーボードに押し付けている頬と組んだ腕に挟まれて、眼鏡が少し浮いている。そっと手を伸ばして、眼鏡をはずした。

 瞼の縁に残っている目尻の二重の線。鼻の形がまっすぐだ。そのまま口元に目線がいって、その唇がわたしに重ねられたことを思い出してしまった。
 
 今のが、亜沙子のはじめてのキスだ
 
 ぶわ、と体温が上がる。耳が熱い。

 まったくなんて台詞だろう。官能小説なんて書いてるから、言葉の使い方がおかしくなってるんだ。
 恥ずかしい言いまわしで翻弄してくるくせに、なにを考えてるのか全然わからない。
「あーやだやだ」
 また鼓動が速くなってる。そんな風にさせる哲がやだし、自分もいやだ。なんだか近頃、自分のことを持て余してる。
 いろんな思いを振り切るように、視線を室内に向ける。布団もベッドもない。廊下の正面にもうひと部屋あったから、そっちが寝室だろう。
 勝手に入るのは気が進まない。だけど、毛布を持ってくるくらい、いいよね?

 そっとドアノブに手を回す。カーテンが引かれたままの薄暗い部屋。リビングより小さなその部屋は、ベッドとサイドテーブルのほかに、衣装ケースが置かれていた。見たことのない哲のカジュアルな洋服や小物が視界にチラついて、リビング以上に哲の気配を強く感じてしまう。

 さっさと出よう。なんかこの部屋、心臓に悪い。

 そう思って、ベッドの上、起きたままの形を残してぐにゃりと曲がっている毛布をグイと引っ張る。

 バサリ。
 その拍子に、なにかが落ちた。

 床に落ちた一冊の本。淡い色で書かれたタイトル。見覚えのある表紙。ウサギと亀と女の子が楽しそうに笑っている。その中心にいる男の子の。
 顔が、無かった。

「…………え?」

「さとしくんとよるのがっこう」

 そう書かれた絵本のさとし君の顔は、黒く塗りつぶされていた。
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