図書恋ーー返却期限なしの恋ーー
恋のゆくえ
若草色の引き戸に手をかける。ガラッとドアは開いた。やっぱり、と小さく思う。
「小林先生」
だって哲は、スペアキーを持っているから。
「遅かったな」
窓際のいつもの席に、座るのではなく机に浅く腰かけて、哲はこちらを見ていた。ドキドキが過ぎて頭が痛い。汚い恰好で机に座らないでください、そんな簡単な言葉も出てこない。
「どういうつもりですか」
体は入口から動かない。校庭の向こうから賑やかな音楽が聞こえてくる。それなのにこの場所は、わたしの固くて小さな声も届くくらい静かだ。
「こうでもしないと、亜沙子とちゃんと話せないなって思ったから」
知らない間に髪を切ったらしい。いつももっさりして見えた髪は短くカットされて、前よりも視線がはっきりと突き刺さる。
あの日わたしが触れた髪は、切られてもうない。そんなことが頭の隅に浮かんで、自分の思考にこそ嫌気がさす。
哲の言葉が頭を離れない。あんなこと言ってるのを聞いたら、大嫌いだとおもう。頭の中で、半分くらいはもう嫌いだ。
それなのにもう半分が、駄々をこねてる。
さみしいと訴えている。
ダメ彼と別れられない友だちの話が、今ならわかる。理屈の通りに納得してくれない心に振り回されて傷ついて、それでも割り切れないのがこの、厄介な感情なんだ。
テーブルから体を離した哲が、本棚から一冊の本を取りだす。
「亜沙子先生、この本貸してください」
哲の手にある一冊の絵本。手の間で表紙が全部は見えないけど、それでもわかる。
わかってしまったら、眉がぐにゃりと寄った。唇も曲がる。鼻の頭がツンとする。
「さとしくんとよるのがっこう」
図書室の物である証拠に、小学校の名前とバーコードがついている。
哲の言ってることが全然わからない。ほんとに、どういうつもりなんだろう。
わたしはあの日からずっと、この絵本を読めないでいるっていうのに。
「代わりに、これ貸しておくから」
さっき腰かけていたテーブルの椅子を引くと、置いていたそれをわたしへと差し出した。
「返却期限は、なし」
そう言って、唇の端を小さく上げる。わたしは黙って哲の手にある絵本を見る。
鉛筆の跡が今もうっすら残っている。それでも、丁寧に落としたんだろう、紙はよれても皺になってもなかった。
ともだちに囲まれて、笑うさとし君の顔。それはもうわたしには、哲にしか見えない。
「なんなのよ……?」
哲のことを知りたいと思ってた。でも今は、知るのがこわい。また傷つくくらいなら、もうなにも知りたくない。
それなのに、唇が勝手に尋ねている。その意図を。
窓の向こうから子どもたちの歓声が聞こえる。
『借りもの競争を終了します。まだ校舎にいる先生方、校庭に戻ってください』
校庭からの放送が聞こえて、ふっと窓を見る。そうだ、戻らないと――。
「亜沙子」
焦れたような、それまでよりどこか切羽詰まった声だった。哲の方を向こうとして、体が途中で止まる。視線を上げられず、白いシャツを見た。
「この間のことだけど」
ビクン。
体全部が小さく揺れた。いっきに記憶がよみがえる。顔を塗りつぶされたさとし君、二人で食べた卵粥、子どもみたいに笑う顔、それから。
わたし、哲が好き、みたいです
はい、しましたよセックス
あの日の熱と、痛み。
反射的に身を翻して、真後ろの扉に手を伸ばす。
いやだ。
もうあんな思いはたくさんだ。
ドアの縁をつかむ。思いきり横に引いたところで、
ガン!
後ろから伸びた手が、扉を強く叩いた。わたしの手のすぐ上、杭のように動きを止める。
「――行くな」
小さく首を横に振る。もう泣いていた。バサバサッと絵本の落ちる音。直後、もう片方の腕がわたしを後ろから抱きしめた。
「いやっ」
体を大きく動かす。扉を抑えていた手もわたしの腕をつかんで、動きを拘束する。久しぶりに感じる哲の体温。あの日よりも熱い気がして、たった一度の記憶を細かく覚えている自分に気がついてまた涙が止まらない。
「最低っ」
あの日と同じ言葉を吐く。ふいに時間が巻き戻ったような気がした。ここは哲のアパートで、わたしは電話を聞いたばかり。
「亜沙子聞いて。頼むから」
懇願するような声も、あの時と同じだ。そんな弱ったような声を聞いたって、絶対ごまかされてなんてやらない。
「嫌い。大きらい」
言い続けていれば、本当にそうなるといいのに。流れる涙が顎をつたって、胸の前で交差する哲の手首に落ちる。
「こっち見ろって」
強い力で無理やり向かい合う形にされた。見たくなかったのに。久しぶりに間近に哲を、見た。
短く切られた前髪の下で、奥二重の目が赤く充血している。その下に広がる隈。この間倒れたときよりひどいかもしれない。まどか先生が言っていたことをぼんやり思い出す。二人そろって顔色が悪い、と言っていた。わたしだけじゃなくて、哲も――。
「たしかに一番最初は、亜沙子に興味があった。でもそっからどんどん、気もちが変わってったんだよ」
哲の眉がぐっと寄って、怒ってるような苦しそうな顔になる。強く捕まれている腕が痛いはずなのに、意識がそちらに向かない。
「俺のこと辞書で殴るくらい子どもが好きで、名前呼ぶだけで真っ赤になって。すげぇかわいいと思ったよ。キスしても抱きしめてもかわいくて、俺のものにしたいって思った」
顔が真っ赤になるようなことを言われてる。この間までのわたしだったら絶対に冷静でいられなかった。だけど今は、スマホを片手に笑う哲の姿が眼裏にこびりついて離れない。またじわりと涙があふれた。
「だって」
わたしの言葉の先がわかっているように、哲が小さく頷いた。
「あの時、担当から電話がきて」
ふーっとそこで息を吐いた。一瞬伏せられた顔。いつも尊大な哲の、まるで打ちのめされてるような姿に心が僅かに揺れる。
「俺、絶対やだった。亜沙子がどんな風に俺に抱かれて、どんな反応したのか文字にして、みんなに知られるなんて。俺だけが知ってればいいって思って、諦めてもらう為にあんな言い方した」
「――――」
なんて言えばいいかわからない。それに信じていいのかも、わからない。これこそが嘘だったら、どうすればいい? 今度こそ心がバラバラに砕けてしまう。
「許してくれなんて言えない。だけど信じてほしい」
まっすぐにこちらを見る目が歪んでいる。わたしの腕を掴む手が、微かに震えてるのは気の所為だろうか。
「亜沙子が好きなんだ」
渇いた喉をごくりと上下した。
ほんとうに、哲はわたしのことが好き?
でもこわい、信じられない。想いが狭間でぐらぐらと揺れる。
哲がそっとわたしの腕から手を離して、ゆっくりと床に落ちたままの絵本を拾い上げる。
同じ表紙の二つの絵本。哲がもう一度わたしにむかって差し出すのは、鉛筆の跡がうっすら残るさとし君が表紙。
「これを書き終わるまでは、なに言っても信じてもらえないだろうなって思ったから。昨日ようやく完成したんだ」
その言葉に、問うように哲を見上げる。哲は表情を緩ませて、絵本のページを捲った。
泣くのを我慢してるさとし君がベッドに横たわっている、最初のページ。
の前に、原稿用紙が挟んであった。
「これ……?」
二十枚くらいだろうか。さっき渡されたときは、表紙に気を取られて挟んであった紙に気がつかなかった。
「俺がはじめて書いた、官能小説じゃない、物語」
少し照れたように哲はそう言った。
わたしは黙って原稿用紙に触れる。カサリと渇いた音を立てる紙の質感。きれいな字の文字を目が追っていく。
「小林先生」
だって哲は、スペアキーを持っているから。
「遅かったな」
窓際のいつもの席に、座るのではなく机に浅く腰かけて、哲はこちらを見ていた。ドキドキが過ぎて頭が痛い。汚い恰好で机に座らないでください、そんな簡単な言葉も出てこない。
「どういうつもりですか」
体は入口から動かない。校庭の向こうから賑やかな音楽が聞こえてくる。それなのにこの場所は、わたしの固くて小さな声も届くくらい静かだ。
「こうでもしないと、亜沙子とちゃんと話せないなって思ったから」
知らない間に髪を切ったらしい。いつももっさりして見えた髪は短くカットされて、前よりも視線がはっきりと突き刺さる。
あの日わたしが触れた髪は、切られてもうない。そんなことが頭の隅に浮かんで、自分の思考にこそ嫌気がさす。
哲の言葉が頭を離れない。あんなこと言ってるのを聞いたら、大嫌いだとおもう。頭の中で、半分くらいはもう嫌いだ。
それなのにもう半分が、駄々をこねてる。
さみしいと訴えている。
ダメ彼と別れられない友だちの話が、今ならわかる。理屈の通りに納得してくれない心に振り回されて傷ついて、それでも割り切れないのがこの、厄介な感情なんだ。
テーブルから体を離した哲が、本棚から一冊の本を取りだす。
「亜沙子先生、この本貸してください」
哲の手にある一冊の絵本。手の間で表紙が全部は見えないけど、それでもわかる。
わかってしまったら、眉がぐにゃりと寄った。唇も曲がる。鼻の頭がツンとする。
「さとしくんとよるのがっこう」
図書室の物である証拠に、小学校の名前とバーコードがついている。
哲の言ってることが全然わからない。ほんとに、どういうつもりなんだろう。
わたしはあの日からずっと、この絵本を読めないでいるっていうのに。
「代わりに、これ貸しておくから」
さっき腰かけていたテーブルの椅子を引くと、置いていたそれをわたしへと差し出した。
「返却期限は、なし」
そう言って、唇の端を小さく上げる。わたしは黙って哲の手にある絵本を見る。
鉛筆の跡が今もうっすら残っている。それでも、丁寧に落としたんだろう、紙はよれても皺になってもなかった。
ともだちに囲まれて、笑うさとし君の顔。それはもうわたしには、哲にしか見えない。
「なんなのよ……?」
哲のことを知りたいと思ってた。でも今は、知るのがこわい。また傷つくくらいなら、もうなにも知りたくない。
それなのに、唇が勝手に尋ねている。その意図を。
窓の向こうから子どもたちの歓声が聞こえる。
『借りもの競争を終了します。まだ校舎にいる先生方、校庭に戻ってください』
校庭からの放送が聞こえて、ふっと窓を見る。そうだ、戻らないと――。
「亜沙子」
焦れたような、それまでよりどこか切羽詰まった声だった。哲の方を向こうとして、体が途中で止まる。視線を上げられず、白いシャツを見た。
「この間のことだけど」
ビクン。
体全部が小さく揺れた。いっきに記憶がよみがえる。顔を塗りつぶされたさとし君、二人で食べた卵粥、子どもみたいに笑う顔、それから。
わたし、哲が好き、みたいです
はい、しましたよセックス
あの日の熱と、痛み。
反射的に身を翻して、真後ろの扉に手を伸ばす。
いやだ。
もうあんな思いはたくさんだ。
ドアの縁をつかむ。思いきり横に引いたところで、
ガン!
後ろから伸びた手が、扉を強く叩いた。わたしの手のすぐ上、杭のように動きを止める。
「――行くな」
小さく首を横に振る。もう泣いていた。バサバサッと絵本の落ちる音。直後、もう片方の腕がわたしを後ろから抱きしめた。
「いやっ」
体を大きく動かす。扉を抑えていた手もわたしの腕をつかんで、動きを拘束する。久しぶりに感じる哲の体温。あの日よりも熱い気がして、たった一度の記憶を細かく覚えている自分に気がついてまた涙が止まらない。
「最低っ」
あの日と同じ言葉を吐く。ふいに時間が巻き戻ったような気がした。ここは哲のアパートで、わたしは電話を聞いたばかり。
「亜沙子聞いて。頼むから」
懇願するような声も、あの時と同じだ。そんな弱ったような声を聞いたって、絶対ごまかされてなんてやらない。
「嫌い。大きらい」
言い続けていれば、本当にそうなるといいのに。流れる涙が顎をつたって、胸の前で交差する哲の手首に落ちる。
「こっち見ろって」
強い力で無理やり向かい合う形にされた。見たくなかったのに。久しぶりに間近に哲を、見た。
短く切られた前髪の下で、奥二重の目が赤く充血している。その下に広がる隈。この間倒れたときよりひどいかもしれない。まどか先生が言っていたことをぼんやり思い出す。二人そろって顔色が悪い、と言っていた。わたしだけじゃなくて、哲も――。
「たしかに一番最初は、亜沙子に興味があった。でもそっからどんどん、気もちが変わってったんだよ」
哲の眉がぐっと寄って、怒ってるような苦しそうな顔になる。強く捕まれている腕が痛いはずなのに、意識がそちらに向かない。
「俺のこと辞書で殴るくらい子どもが好きで、名前呼ぶだけで真っ赤になって。すげぇかわいいと思ったよ。キスしても抱きしめてもかわいくて、俺のものにしたいって思った」
顔が真っ赤になるようなことを言われてる。この間までのわたしだったら絶対に冷静でいられなかった。だけど今は、スマホを片手に笑う哲の姿が眼裏にこびりついて離れない。またじわりと涙があふれた。
「だって」
わたしの言葉の先がわかっているように、哲が小さく頷いた。
「あの時、担当から電話がきて」
ふーっとそこで息を吐いた。一瞬伏せられた顔。いつも尊大な哲の、まるで打ちのめされてるような姿に心が僅かに揺れる。
「俺、絶対やだった。亜沙子がどんな風に俺に抱かれて、どんな反応したのか文字にして、みんなに知られるなんて。俺だけが知ってればいいって思って、諦めてもらう為にあんな言い方した」
「――――」
なんて言えばいいかわからない。それに信じていいのかも、わからない。これこそが嘘だったら、どうすればいい? 今度こそ心がバラバラに砕けてしまう。
「許してくれなんて言えない。だけど信じてほしい」
まっすぐにこちらを見る目が歪んでいる。わたしの腕を掴む手が、微かに震えてるのは気の所為だろうか。
「亜沙子が好きなんだ」
渇いた喉をごくりと上下した。
ほんとうに、哲はわたしのことが好き?
でもこわい、信じられない。想いが狭間でぐらぐらと揺れる。
哲がそっとわたしの腕から手を離して、ゆっくりと床に落ちたままの絵本を拾い上げる。
同じ表紙の二つの絵本。哲がもう一度わたしにむかって差し出すのは、鉛筆の跡がうっすら残るさとし君が表紙。
「これを書き終わるまでは、なに言っても信じてもらえないだろうなって思ったから。昨日ようやく完成したんだ」
その言葉に、問うように哲を見上げる。哲は表情を緩ませて、絵本のページを捲った。
泣くのを我慢してるさとし君がベッドに横たわっている、最初のページ。
の前に、原稿用紙が挟んであった。
「これ……?」
二十枚くらいだろうか。さっき渡されたときは、表紙に気を取られて挟んであった紙に気がつかなかった。
「俺がはじめて書いた、官能小説じゃない、物語」
少し照れたように哲はそう言った。
わたしは黙って原稿用紙に触れる。カサリと渇いた音を立てる紙の質感。きれいな字の文字を目が追っていく。